おとぶろラグビー夜話

ラグビーに関するあれやこれや。

タグ:歴史

 ラグビーボール セプターしばらくボーッと生きてたら、いつの間にラグビーボールの編み目がなくなり、材質も合成樹脂に変わっていた。
だが今も「記号」や「オブジェ」としてのラグビーボールには、「編み目」があったりする。絵文字とか。
🏉
そもそもあの「編み目」って何なんだ。
少し前の「革製・編み目あり」のラグビ―ボールにはすでに空気入れ用のバルブ(我々はヘソと呼んでいた)が付いていた。バスケ・バレー・サッカーボールなんかと同じ作りですね。空気入れは簡単。この「へそ」に、「球技ボースクリーンショット 2020-03-28 15.34.27ル共用ピン」を差し込んでポンプを動かすだけ。
この時代すでに「編み目」はボールの機能としては不要なものになっていた訳だ。いやラインアウトで手の小さいスロワーはこの編み目を滑り止めにして投入していたりしたが。
ともかくその後「編み目」は消滅して現在に至る。


さて昭和47年。私が高1でラグビーを始めたころは、ラグビーボールには「へそ」が無かった。そしてあの「編み目」にも意味があったのだ。
「ヘソボール」が現れたのは私が高1の途中頃。当時ボール管理は1年生部員が1個づつ担当していて、手間のかからないヘソボール担当第1号になったT君は羨ましかったなあ。いや、T君はボール管理が一番きれいだったからその「ご褒美」としてヘソボールを与えられたんだっけ。
その後順次「ヘソボール」への入れ替えが進み、私が3年の頃、部所有のすべてのボールが「ヘソボール」になったと思う。つまり私と1年下の世代までが「ヘソなし原始ラグビーボール」を知る最後の世代という事になる。

ここでは「原始ラグビーボール」とその「取り扱い」について記す。
昔のラグビーボール、検索してみたが見当たらない。(ちゃんと探せばどこかにはあるのかも知れないが、私の検索力と根気では見つからないという事。)
記録を残しておかねば、このままでは歴史的事実としても忘れ去られてしまう。もちろん画像も見当たらない。自分で描くしかない。


ボールとチューブ3
①これがゴムチューブ。
 空気入れ部は本体とひとつながりのただのホース。
「ヘソ」というより「へその緒」か。

②チューブを革ボールに入れ、空気を入れる。
空気入れの先もただのパイプ。
ピンなどない。

③空気を入れたら、ホースを折り曲げ輪ゴムで縛る。


ニードル5



















④革ひもにたっぷりと保革油を塗る。革ひもの根元には切れ目がある。スタートはこの切れ目に先端を通す。
保革油の缶もデカかった。直径10㎝以上、高さもそのくらいあったのではないか。現在はそんな製品は無いようだ。
⑤「紐通し穴の裏側には「裏地革」がある。革紐やニードルでゴムチューブを傷つけないためのカバー。図の中心右側の縫い目はこのカバーを縫い付けたもの。
「ヘソの緒」をそのカバーの下側に押し込み、ニードルで編んでゆく。この時点で空気はパンパンに入っているわけだから、編み作業は当然力と技術を要する。綺麗に仕上げるヤツとそうでもないヤツの力量の差が出る。
「ニードル」は直径5mm長さ25㎝ほどの金属針。もちろんラグビーボール専用。

ブタボール3
⑥編み終わり残った紐はタテ線に押し込んで出来上がり。この作業もニードルを使う。


この空気入れ作業はボール購入時だけではない。
他の球技ボール同様、空気はゆるむ。その都度革ヒモをほどいてこの作業を繰り返すのである。
(練習後毎回この作業をしていたラグビー部もあったとか。
これは大変だ。)

⑦このころ高校生はやや小さめの「6面ボール」だった。
(いや、6面は中学生、高校は4面だった、との声もある。地域差があるのか時代が違うのかはは今のところ、不明)
革の張り合わせはこんな感じ。
6枚の革を一点に集めるには縫い代に無理があるのだろう。

⑧革ボールはすぐ伸びる。
それも均等に伸びてボールが大きくなるのではなく、横に膨らむ。で新品時②のようなボールはすぐにこんなふうになってしまう。我々はこれを「ブタボール」と呼んでいた。というか、私が「ブタボール」と命名した。
練習ボールはどれもこんなので、試合で新品ボールをおろすと細すぎて戸惑ったものだ。色もだんだんドス黒くなってくる。
なおボールの先端は②の形。現在ものより先がとがっていた。今は先がだいぶ丸くなった。


日々の手入れ。

土のグラウンドでボールを使えば当然汚れる。
手入れは唾(ツバ)か牛乳という事になっていた。
唾であれば直接ボールに吐き付け、牛乳はボールに塗り、指でごしごしこすり、まず「垢だし」をする。これをせずに磨くと表面がロウ状に滑りやすくなる。
「垢だし」が終わったら、再びツバか牛乳を塗りナイロンストッキングでピカピカに磨く。ラグビー部の1年生はみんな母親とかのパンティストッキングを教室に持ち込んでいた。
ところでこの「手入れ法」って全国共通なんだろうか。何人かから「同じ」との証言を得てはいるが


教室内で唾を吐き、女性ものパンティストッキングを持ち込むラグビー部員は一般常識からすればどう考えてもヘンタイである。うら若き女子たちの嫌悪のマトになって不思議はない。
ところが現実はそんなことはないんだな。
ユーミンの歌「ノーサイド」を解説したエッセイスト酒井順子氏の分析によれば、「ラグビー部員」は女子のあこがれだったという。「野球にはないお洒落感と知的な感じ、お坊ちゃんイメージ」があり、ラグビー部員の彼女になることは、野球部員の彼女よりは「格上」で女子社会のヒエラルキー上位に位置するとか。
ただしユーミンも酒井順子も
女子高育ち。なので高校ラグビー部の「ボール磨きの実態」は知らなかっただろうけど。
ちなみにユーミンのデビューも昭和47年。スクリーンショット 2020-03-28 16.24.49














画・kanekootow
©アトリエほっかむ許可済

毎年少しずつルールが変わるラグビー。

ここでは約半世紀さかのぼって47年前。私が高校1年でラグビーを始めたころのルールを振り返ってみる。
時に昭和47年(1972年)。実はこの翌年は現行ルールにつながる多くのルール改正が行われ、ルール改変の歴史でも大きな節目だった。したがってその前年のルールは今から振り返るとなかなかすごいものもある。

ルールの変遷を知ることは「ラグビーとは何であるのか」を考える一助となるだろう。

ただし資料を当たるのではない。あくまで私の記憶をさかのぼる。

少なくとも高3当時は「競技規則」全てを頭に叩き込んでいた自信はあるが、さすがに45年たって、どれだけ正確かは正直なところ判らない。間違い・思い違いがあれば、指摘して頂きたいと思う。
一方現行のルールについてはラグビーファンとして最低限の常識は身に着けているが、高3当時のような「競技規則全てを頭に叩き込んでいた」ような状態ではない。したがってここでも間違い・思い違いは充分起こりえることもあらかじめ断っておきたい。

ともあれこの稿は、以前に投稿した「当時の日本代表を振り返る」と同様、私の記憶力テストでもある。菅平
















昭和47年の菅平
真夏の土煙が舞う。
このころ芝のグラウンドなど一面もなかったと思う。もちろん人工芝などない時代。






1.グラウンド

単位は現在のような「メートル」ではなかった。「ヤード」。

22mラインは25ヤードライン。

10mラインは10ヤードライン。もちろんペナルティ時の後退義務も10ヤード。
味方ペナルティ時の、FWリーダーKさんの「10ヤーズバーック!!」の声が今も耳に残っている。

15mラインはなかった。

したがってラインアウトはどれだけ長くても良かった。もちろん実際には反対側のタッチに届くほどの列を作ることなどなかったが。
ラインアウトでの反則再開ポイントは反則地点。

ゴール前の5mラインも無かった。よってゴール前のノッコンやスローフォワードなどのポイントはその行為の発生地点。発生地点がインゴールの場合は再開ポイントはゴールライン上だったと思う。ただしスクラム時は、ゴールライン側チームののフロントロウの足はゴールラインより前に置く。つまりゴールライン上でノッコン等あってもポイントはその地点ではなく、ハーフウェイ寄りにずらすという事。
ゴール前のタッチでは再開ポイントはゴールラインぎりぎりってこともあった。
ペナルティ時はどうだったのか。5mラインが無いのだから他の場合と同様。反則の発生地点からだとも思うが、ゴールラインぎりぎり上からのスタートってのは無理がある。うーん、思い出せない。「仮想の5メートル地点」とかの規定だったのだろうか。


「ヤード」が「「メートル」に変わったのは高2の時だったと思う。

15mラインとゴールからの5mラインが設けられたのも同時期、か、その1年後くらいだと思う。
これができた時は、タテヨコ2本ずつラインが増えて「ラグビー場が碁盤の目のようになった」などと思ったものだ。


聞いた話では以前は25ヤードラインもなく、しかも「ダイレクトタッチ」の概念もなく、攻撃側はタッチに蹴り出せばその分だけ前進でき、相手方はマイボールラインアウトからまたタッチ、という試合展開が多く、これではボールゲームとして面白くない、という事で、25ヤードラインと「ダイレクトタッチ」のルールが作られたという。

現在ではキックの地点が22メートル内であっても「味方が22m内に持ち込んだ場合」はダイレクトタッチとされるが、このころは見方が持ち込んだ場合でも良かった。 時にボール保持者が自分で22m内に持ち込んでタッチキックを蹴ることもあり、これを「余裕のプレイ」と見るか「消極的プレイ」と見るかは意見が分かれたと思う。


2.スクラム

現在のようなレフェリーのコールはなく、互いが呼吸を合わせて組んでいた。相撲の立ち合いと同じである。レフェリーも行司と同じ。上手く息があって組み合えば自然にゲームが再開される。

組む前にプロップが互いの肩に手をかけることも義務付けられていなかったと思う。ただし手の届く範囲からは組み合っていた。

これも聞いた話だが、以前はその規定もなく、スクラム時は数メートル離れたところから互いに突進して組んでいた時代もあったという。

組んだ後のプロップの手の位置は現在のように対面に掛けることが義務付けられてはおらず、特に1番の場合、左手を自分の膝に置いて安定姿勢を取る事が多かったと思う。

このような大雑把なものだったので当然スクラムの反則を取ることはほとんど無く、スクラムが崩れば何度でも組み直していた。

スクラムの人数も規定はなく、フロントロウ3人だけで組むのもアリ。
スクラムを回すのもアリ。スクラムが弱いチームはとにかく回してその場をしのぐのも作戦の一つだった。
攻撃側が回して№8が左にサイドアタックって作戦もあった。

SHによるボールインのタイミングは自由で、スクラムが弱いチームの場合、組んだ瞬間にボールを入れてフッカーはダイレクトで出し即バックスに展開、といった作戦が取られた。

ただしノットストレートは現在より厳密で特にスクラムが弱いチームの場合。1試合にいくつかは反則を取られたものだ。スクラムのノットストレートには「カンニングボール」なんて俗称もあった。
ノットストレートが厳密である分、相手方フッカーのフッキングの力量で相手ボールを
奪うことも可能だった。
したがってフッカーは自ボールを確実に確保する技術、相手ボールを奪う技術の向上に日々努めていたものだった。

スクラムのオフサイドラインは現在のような5m後方ではなく最後尾のライン。

スクラム












昭和47年のスクラム
1番I君の手が自分の膝にある




3.ラインアウト

前後左右とも間隔距離の規定は無し。敵味方グシャッと並んでボールを取り合っていた。で、「ラインアウトは反則の巣窟」などと言われていた。
(いやまてよ、なんか2フィートって数字が頭に残っている。相手との間隔、2フィートって規定だったかも)
その後、高2の時に前後の間隔が規制されたように思う。

リフトアップは反則。当時あるOBが「エレベーター」という「裏技」を教えてくれて、試合で使ったがスグにバレてペナルティ取られた覚えがある。その当時わが校には185㎝の長身ロックNさんがいた。たぶん当時の高校生では全国でも最長身クラスだった。大学・社会人でも185を超える人はそうはいなかった時代。
そのNさんを「エレベーター」すれば、そりゃバレるはなあ。

ラインアウトのオフサイドラインも味方の最後尾だったか。

10m後方になったのも高2の時。

人数をボール投入側に合わせなくても良かったが「長さ」はボール投入側より長いと反則。


4。モール、ラック

アンプレイアブル時は常に直前のボール保持側のボールでスクラム再開。この規定はその後たびたび変更が繰り返され、現在に至る。
モール時のレフェリーのコール、「ワンストップ」とか「ユーズイット」などはなかった。モール・ラックはどうにもならなくなるまで続行された。
コラプシングの反則もなかった。私など、モールが押されるとモール事タックルして崩していたものだ。
あぶないなあ、今考えると。

5.フリーキック

当時はフェアキャッチ後以外は「フリーキック」は無かった。現在のような「軽い反則に対するフリーキック」は無かったという事ですね。 フリーキック時、相手方は10m下がらなくてよく、マークのポイントまで出ることができた。しかもキッカーがモーションに入ればチャージに出てよく、したがってフリーキック側はチャージされないためにはマークより数メートル以上下がってキックをした。
しかもフリーキックはマークポイントを越えなければならず、現在のようにタップキックからスタートというのはできなかった。

フェアキャッチができるのは現行の「22メートルライン内」ではなく「自陣」であったような。
どっちにしろ、フェアキャッチなどめったにするものではなく、特に高校生などがしようものなら、みんなあっけにとられたような反応だった時代。
現在フェアキャッチはキッキックオフのボールに対してはできないが当時は可能。このころではないが後にキックオフからのフェアキャッチが流行ったことがあった。
〈追記〉
フェアキャッチ時の規定について貴重なご指摘を頂きました。
そうでしたそうでした。以下追記です。
「マーク」のコールは静止してかつ片足でマークポイントを明示しなければフェアキャッチは認められなかった。
その後「両足をついて静止」でよくなり、さらに走りながらでも、さらにはジャンプして空中でも認められるようになり現在に至る。
また「マーク」の声が審判に聞こえなかった時のためだろう、キャッチ後腕を「カギ型」に曲げてマークの意志を表示することも規定された。
マーク

 























.反則

基本的に「危険な行為」は現在と変わらないが、その適用は現在より甘く、よほどの事がない限りこのペナルティはなかったように思う。

キック時のレイトチャージも現在のように「ボールの落ちた地点から(オプション)ペナルティキックで再開」ではなく、その地点での再開だった。その後「ボールが落ちた地点でスクラム再開」とのオプションとなり現行ルールへと至る。

シンビンはなかったしレフェリーはイエローとレッドのカードも持っていなかった。。ひどい反則にはレフェリーの判断で警告と退場が宣せられた。


.ペナルティキック

ペナルティからのタッチキックの場合、現在のようにマイボールからのラインアウト再開ではなく、通常のタッチキック同様、相手ボールのラインアウトで再開。

したがって現在のように「ペナルティからタッチに出して再開」という選択は自陣25ヤード内からの脱出、という時ぐらいで、大抵はハイパントか、タップキックからの展開あるいはFWの突進などのサインプレイで再開していた。


.インゴール

現在のように「タッチインゴールやデッドボールラインを越えて攻撃側がボールを蹴り出したときは蹴った地点から防御側ボールでスクラム再開」ではなかった。25ヤードラインからドロップアウト。キックオフ時も同様。

したがってロングキッカーがいるチームはキックオフ時や通常のインプレイ時、ハーフウェイ前後から力任せにボールをデッドボールにケリ出せばドロップアウトで再開、相手陣でマイボールで攻撃というのが流行った。これでは試合がつまらなくなると現行ルールが考案されたのはだいぶ後。


.選手交代

選手交代は原則無し。怪我などでやむを得ないとレフェリーが判断し許可した時のみ2名まで交代が認められた。さらにさかのぼれば交代は一切なし、だったという。


10.レフェリー

現在の「アシスタントレフェリー」はあらゆるジャッジを補佐する。

が、当時の「タッチジャッジ」は、タッチとゴールキックの判定を補助するだけだった。

したがって公式戦でも両チームの関係者がこれを務める事が認められていた。

高校生などのチームでは補欠選手がタッチジャッジを務めることが多く、ひどいチームになるとルールもろくに知らない1年生にやらせることもあって、ダイレクトタッチも知らなかったり、どちらの手を上げるかを知らないなんてこともあった。

いやもちろん私の高校ではそういう事はありませんでしたが。WIN_20180916_17_11_31_Pro


昭和50年ころのスパイク
SUZUKI製
(撮影は最近)









11.得点

トライは4点。
ペナルティゴール3点、ドロップゴール3点、トライ後のゴール2点は今と同じ。
ただし当時は「トライ後のゴール」が決まった場合、トライを合わせた得点がキッカーの得点としてカウントされた。
例えば藤原がトライすれば藤原が4点を稼いだことになる。だがその後のコンバージョンを植山が成功させれば個人記録は植山6点で藤原の個人得点は消える。 この頃日本代表のニュージーランド遠征があったが、通算個人記録は当然植山がダントツだった。
トライの得点、以前は全て3点だったと聞いたことがある。
さらにさかのぼればトライは得点にならなかったとか。つまりトライはゴールを狙う「試み」を得る権利が与えられたという事。だから「トライ」。
つまり原始ラグビーにおいてはラグビーは「ゴール数を競う競技だった」という事。 だからすべてのゴール得点は1。当時の試合では例えば8−0の試合は「大差」だった。
その後トライ「にも」得点が認められ、3点さらに4点、5点とトライの比重が高まり基本「トライを競う競技」になったことがわかる。
現在はトライ6点案が、さらに「自陣22mライン以内からの連続攻撃によるトライは8点」案も検討されているという。

12.キックオフとキックティー
当時はキックティーなんてものはなく、ゴールキックを狙う時は、ボールを立てるためグラウンドに穴を掘るか土を盛るかしていた。芝のグラウンドなどめったになかったが、「土を盛る」派のキッカーは、芝では外から土を持参するしかなかった。
試合開始とハーフタイム明けのキックオフもプレースキック。
私もキッカーをやることがあったが、ボールを立てる私のやり方は「スパイクのかかとを地面につけてここを軸にくるりと回転して穴をあける」、というものだった。が、これを続けるとスパイクのかかとが1方向にゆがみ右スパイクだけがすぐにダメになることがわかってやめた。以後は「土を盛る」派。

試合開始とハーフタイム明けのキックオフもプレースキック。

トライの後のキックオフは、相手のコンバージョンが決まった後はプレースキック、外れた時はドロップキックで再開。今考えるとこれはずいぶん面倒で意味不明なルールだった。

いや、軽い気持ちで書き出したら長くなってしまった。ずいぶん変わったものだ。まいったまいった。

ただこうして約半世紀前のルールを振り返ると、改めてラグビーがどこから来てどこに向かうのかが見えてきますね。
パント


おまけ

ムカシのアルバムをあさってたらこんなのも貼ってあった。
昭和48年のイラスト
「昭和48年のショートパント」(笑)




あ。この絵を見て思い出した。当時は高校生もヘッドキャップなしでOK.。
スクラムのプッシュも1mまでの制限はなかった。全て大人のルールと同じ。
ボールだけ違って、小さめの「6面ボール」。

↑このページのトップヘ