おとぶろラグビー夜話

ラグビーに関するあれやこれや。

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昭和49年。
秩父宮ラグビー場はこの前年よりスタンドの改修工事が始まっていた。だが解体は終了したものの、翌年以降「予算が付かなかった」とかで工事は中断。この事態は大学ラグビーの人気カードや日本選手権などが国立競技場で開催されるきっかけともなる。
「人気カード」以外は大学の練習グラウンドで公式戦が行われた。横浜の三ツ沢競技場も使われた。八幡山、東伏見、三ツ沢にはよく通ったものだ。当時私は受験生。何やってんだか。


一方、秩父宮はスタンドもフェンスも管理人もないまま放置されていた。

そんな中、当時高3だった私はしばしば授業をさぼって、ぶらりと秩父宮を訪れ、当時珍しかった芝のグラウンドを楽しんでいた。時に昼寝をし、時にボールを持ちこみゴールキックの練習などしていたものだ。
その日も秩父宮に入る。いつもと違い人の気配が。みんなジャージ姿だ。
ああどっかのチームが練習場として利用しているのだな。
と見ると、あ、あれは宿沢、あれは寺井、やや村田も横井もいる。植山、森、原、小笠原、石塚も。
「全日本の練習だ!」
もちろんスマホもカメラ付きガラケーもない時代。
翌日は小学生の時買ってもらった「オリンパスペン」を引っ提げてラグビー部の友人も誘って再訪。
いやまてよ、その日のうちに家にオリンパスペン取りに行った気もする。う~ん、思い出せない。
(注・当時は他の競技も含め、「日本代表」とは言わず「全日本」とよんでいた。)

この記事ではこの時の写真13枚を45年目にして初公開。合わせて当時の日本代表を振り返ってみる。

ただし例によって全て現在の私の記憶に基づく。検索・事実確認など一切しないので間違い・思い違いもありうることをお断りしておく。(ただ名前の間違いは失礼にあたるので伊藤忠ユキ氏・石塚武オ氏については確認の上それぞれ、忠幸氏、武生氏と記した)
登場する選手達は当然すでに現役を引退し、他界された方もいる。もちろん私よりも「先輩」であり、お名前には「敬称」をつけるのが礼儀と言うものだろう。だがここではあえて当時の私のあこがれと敬意をこめて「呼び捨て」とさせていただく。

この時期、翌年にウェールズ来日を控えての合宿だったのではないか。皆、神宮球場方面から歩いて秩父宮に来ていた。日本青年館あたりが宿舎だったか。
この日、コーチ・監督などはいなかった。選手たちの自主練習だったか。
いやこの合宿、その後も何日か行ったが監督コーチは見た覚えがない。当時は専従監督もいない時代。夜のミーティングと日曜ぐらいしか出なかったのだろうか。当時の監督が誰だったかも思い出せない。日比野弘氏あたりかな。
メディアの姿も一度もみなかった。

秩父宮5














前から坂田(近鉄)、伊藤忠幸(リコー)、そしてキャプテン横井章(三菱自工京都)。
(2番目はもしかして違うかも)
これFWの練習。仮想ラックに突っ込む。これ私らもやっていたが、今思えば実戦には結びつかない練習。現在は絶滅した練習だろう。
だがバックス3人の重鎮が楽しそうにかつ真剣に取り組む姿勢がうれしい。
下の写真がこの後の図。メンバーは違うが。

秩父宮4












左から原進(近鉄)ひとりおいて寺井(新日鉄八幡)小笠原(近鉄)。FWの重鎮3人。
原は後のプロレスラー「阿修羅・原」リングネームの名付け親は作家野坂昭如氏。当時中年すぎてラグビーを始めて話題になっていた。原は1・3をこなすプロップ。体重は80㎏そこそこだが、当時の日本のプロップは皆そんなものだった。プロレスラーになり100㎏を越えた原は「この増量ノウハウをラグビー界に伝えたい」と語っている。どこかの世界選抜に日本人として唯一№8として出場した。原が着ているのはフランスの代表ユニフォーム。前年の英仏遠征でのフランス戦でジャージ交換したものだろう。
寺井は日本ラグビー界待望の190㎝越えのロック。ただし寺井引退後は190㎝代のFWはしばらく途絶える。
小笠原もロック184㎝。これでも当時大きい方だった。大学ラグビーなどでは170㎝代のロックも珍しくなかった時代。当然豪快なプレイが持ち味だったが、2・3人吹き飛ばした後、周りを見てパスコースを探すような「余裕の技巧派」でもあった。引退後は母校弘前実業でラグビーを教えていた。ただし本人がラグビーを始めたのは高卒後の自衛隊だったような。(元祖福坪?)
ロックでは、この日はいなかったが、当時リーグ戦2部だった東海大の袋舘龍太郎がいた。スロワーの石塚と二人で来てラインアウトの練習を繰り返していた。
秩父宮12
№8村田義弘(リコー)
寺井に次ぐ長身185㎝。ただし今から見るとかなり細身だった。
日本選手権でのトライ後のガッツポーズは当時のラグビー界では異例だった。あんまりかっこよくて同じ№8だった私はトライ後そのポーズを真似したものだ。
ちなみに写真の右側は私。

№8といえば当時東洋大に佐藤肇という選手がいた。デカい体でランもキックもパスもこなし、決して強豪ではなかった東洋大を、攻守とも一人で牽引していた。ペナルティ時のタッチキックなども彼が蹴っていた。ゴールキックも蹴っていた気もするがこれは確かではない。
とにかく大学生の中に一人Nコムのブリッツあたりがいる感じ。異次元の存在だった。これは将来の日本代表の主力を担う才能だ、と思ったものだ。学生代表にも早慶明選手ばかりの中で一人選ばれていた。
だがその後の活躍を私は知らない。
「消えた天才」か。
秩父宮7














左からロック柴田(東京サンヨー)、小笠原、ウィング金指(早稲田)、原、プロップ黒坂。
うーん、金指と黒坂は自信がない。(追記・黒坂はフッカーとの有力情報がありました)
柴田も184㎝ぐらいだったと思う。
背景はメインスタンド側だが、ただの土手。改修中はこんなだった。
秩父宮11
















言わずと知れた宿沢広朗と寺井。
一番の長身と短身二人を呼びつけてポーズを取ってもらった。
今思うと冷や汗モノ。
宿沢はこの時大学卒業後かな。
早稲田卒業後はチームには属さず銀行マンに。たぶんこのウェールズ来日ぐらいでプレイヤーとしては引退したのではないか。後に代表監督。
この黒地に白のアニメジャージは野坂昭如氏主宰のアドリブクラブのユニフォーム。さすがクリエイターたちが集まったクラブ。デザインセンスが違う。
秩父宮14












手前の縞ジャージは明治のキャプテン、プロップ高田司か。
一番右は早稲田の3年石塚武生。
4年でキャプテン。後にリコー。
小柄なフランカーの代名詞。170㎝だったか。
この翌年来日したウェールズにぼろ負けした中で、ウェールズのウィング、100m10秒6のウェールズ記録を持つJ.J.ウィリアムスが独走態勢に入るが、フランカーのバックアップコースを忠実に「カニ走り」して猛タックルで止めたシーンは今も目に焼き付いている。
秩父宮10













宿沢のパスを受けるFB植山信幸。早稲田の4年。日本で初めてプレースキックにインステップキックを持ち込んだ。ハーフウェイからのゴールは時にスクリューキックとなりゴールに吸い込まれ、観衆の度肝を抜いた。
インステップキックを見慣れていない我々はそういうものかと思ったものだが、これ以降あんなボールの回転は見たことがない。

宿沢のパスにも注目。
現在はショートパス以外は基本スクリューだが当時はボールを無回転で相手に届けるのが「正しいパス」とされた時代。入部するとまずこのパスができるようになるまで練習した。
ただこのころからぼちぼちスクリューパスが導入され、ビッグゲームでボールボーイがスクリューパスでボールを返却したりすると会場がどよめいたものだ。

写真ではSHは宿沢しか見当たらないが別の日には今里(近鉄)と松尾雄治(明治→釜石)の姿もあった。
あの松尾は当時SHだったのだ。スタンドオフになったのは釜石入ってからか。(追記。この時松尾2年。翌年にSO転向との有力情報がありました。)
SHとしての松尾は当時から「天才」とは言われたものの必ずしも評価は高くなかったと思う。なにしろ今里・宿沢のような従来のSHのイメージとは違いすぎた。
当時のSHはとにかくよく飛んだ。現在のように密集(ブレイクダウンなんて言葉は当時なかった。)周辺のSHがルールで守られていなかったというのもあるし、スクリューパスがなかった時代、小柄なハーフが「伸びのあるパス」を投げようと思えば飛ぶしかなかったというのも理由だろう。また「飛ぶ」という気合の入ったプレイで見方を鼓舞するという意味もあったかもしれない。
そんな時代、松尾はほとんど飛ばなかった。すでにスクリューパスをマスターしていたし、何より判断力と読みが売り物だった松尾にとって「飛べば次の動きが遅れる」ぐらいの気持ちだったのだと思う。(宿沢も判断力と読みが売りではあったが。)
そんな松尾だが、ここでのパスの反復練習中、誰かに「飛べ!」と声をかけられて最後の一本だけいやいや飛んでいたのを覚えている。
少なくとも当時の日本では彼の「天才」を生かすにはスタンドオフへの転向は大正解だった。

秩父宮6














手前、宿沢の隣は有賀健(日体大)。サントリーの有賀剛の父親。日本のスポーツ界では珍しい「父子二代の名選手」。
ちなみに有賀健の日川高校の同級生にはプロレスのジャンボ鶴田、サッカー日本代表の清雲がいたという。
秩父宮3














中央が藤原優。日川高校時代に代表に呼ばれる。174㎝(?)70㎏代の体格は当時のバックスとしては「巨体」だった。ウィングとセンターをこなす。
当時来日する外国チームにぼろ負けしていても、最後には藤原が1トライは決めて、ファンの留飲を下げさせてくれたものだ。
現在は絶対にありえないことだが当時は例えばケンブリッジ大が来日しても最終戦は「全日本」が対戦していた。国代表が他国を訪れた場合、現地の単独チームと対戦することはあるが、単独チームが他国を訪れて国代表と対戦するなど世界の常識外、だった。当時日本はそんなレベルだったという事だ。実力的にも国際常識的にも。

藤原の左は法政出のセンター吉田か。当時センターの12・13は現在の「インサイド・アウトサイド」ではなく「左・右」だった。「インサイドセンター」の概念を導入し、自ら実践したのは後の平尾誠二だと思う。
藤原の右、赤いジャージはリコーのフランカー6番井沢か。
フランカーの「6,7番」も現在のような「ブラインド、オープン」ではなく「左、右」だった。この時代の7番と言えばあの山口良治。後のスクールウォーズである。当時は京都市役所。代表のゴールキッカーも務めていた。このころはトウキック。この合宿では見かけなかったような。

秩父宮13
















左から、藤原、センター森重隆(明治→新日鉄釜石)現ラグビー協会会長、石塚。
森はまだヒゲを生やしていないか。170㎝に満たない、60㎏代は当時としては極端に小柄なわけではなかった。ただ外国に行くとセンターと言っても信じてもらえなかったとか。
彼をしのぐキレキレのステップと瞬時のスピードは未だ見たことがない。あ、福岡が匹敵するか。タイプは違うが。
(う〜ん。これ森じゃないかも。森にしては大きい気もする。果たして森に「ヒゲなし時代」があったのか、とも)

秩父宮8



















左は早稲田のスタンドオフ中村康司。宿沢と同期。
この日の写真にはないが、この時代のスタンドオフと言えば井口と蒲原。
蒲原は早稲田卒業後チームには所属せず「天理教本部」勤務だった。そんな形で代表を続けていた。
当時は選手交代は「負傷の時レフェリーが認めたときのみ2名まで」だったので、中村、代表での出番はほぼなかったと思う。

秩父宮9














これも中村と植山。


秩父宮15





この合宿最年少の藤原。ボールのかたずけは彼一人の仕事だったかも。もちろん革製紐編みボール。



この写真にはフッカーが一人も登場しない。時代的には大東和美(早大出)がいたはず。ただ彼もスタンドオフ蒲原、宿沢らと同様、卒業後はチームに所属しなかった。それでいて3人とも代表選出。まあのどかな時代ではある。3人とも早稲田。
大東は後にJリーグチェアマンになる。


この後、秩父宮の改修は無事終了するが、この間空前の「大学ラグビーブーム」となる。
国立競技場の早明戦は観衆6万を超え東京オリンピック以来の満員を記録する。当日現場の観客席にいた私はバックスタンドの聖火台の下、ゴール裏まで人で埋まるのを友人たちと呆然と見つめていた。いったい何が起こったのだ、って。
このため、秩父宮完成後も大学の人気カードはしばらく国立競技場でおこなわれることになる。
岸体育館内のラグビー協会で手に入った「学生部員券50円」も廃止された。















毎年少しずつルールが変わるラグビー。

ここでは約半世紀さかのぼって47年前。私が高校1年でラグビーを始めたころのルールを振り返ってみる。
時に昭和47年(1972年)。実はこの翌年は現行ルールにつながる多くのルール改正が行われ、ルール改変の歴史でも大きな節目だった。したがってその前年のルールは今から振り返るとなかなかすごいものもある。

ルールの変遷を知ることは「ラグビーとは何であるのか」を考える一助となるだろう。

ただし資料を当たるのではない。あくまで私の記憶をさかのぼる。

少なくとも高3当時は「競技規則」全てを頭に叩き込んでいた自信はあるが、さすがに45年たって、どれだけ正確かは正直なところ判らない。間違い・思い違いがあれば、指摘して頂きたいと思う。
一方現行のルールについてはラグビーファンとして最低限の常識は身に着けているが、高3当時のような「競技規則全てを頭に叩き込んでいた」ような状態ではない。したがってここでも間違い・思い違いは充分起こりえることもあらかじめ断っておきたい。

ともあれこの稿は、以前に投稿した「当時の日本代表を振り返る」と同様、私の記憶力テストでもある。菅平
















昭和47年の菅平
真夏の土煙が舞う。
このころ芝のグラウンドなど一面もなかったと思う。もちろん人工芝などない時代。






1.グラウンド

単位は現在のような「メートル」ではなかった。「ヤード」。

22mラインは25ヤードライン。

10mラインは10ヤードライン。もちろんペナルティ時の後退義務も10ヤード。
味方ペナルティ時の、FWリーダーKさんの「10ヤーズバーック!!」の声が今も耳に残っている。

15mラインはなかった。

したがってラインアウトはどれだけ長くても良かった。もちろん実際には反対側のタッチに届くほどの列を作ることなどなかったが。
ラインアウトでの反則再開ポイントは反則地点。

ゴール前の5mラインも無かった。よってゴール前のノッコンやスローフォワードなどのポイントはその行為の発生地点。発生地点がインゴールの場合は再開ポイントはゴールライン上だったと思う。ただしスクラム時は、ゴールライン側チームののフロントロウの足はゴールラインより前に置く。つまりゴールライン上でノッコン等あってもポイントはその地点ではなく、ハーフウェイ寄りにずらすという事。
ゴール前のタッチでは再開ポイントはゴールラインぎりぎりってこともあった。
ペナルティ時はどうだったのか。5mラインが無いのだから他の場合と同様。反則の発生地点からだとも思うが、ゴールラインぎりぎり上からのスタートってのは無理がある。うーん、思い出せない。「仮想の5メートル地点」とかの規定だったのだろうか。


「ヤード」が「「メートル」に変わったのは高2の時だったと思う。

15mラインとゴールからの5mラインが設けられたのも同時期、か、その1年後くらいだと思う。
これができた時は、タテヨコ2本ずつラインが増えて「ラグビー場が碁盤の目のようになった」などと思ったものだ。


聞いた話では以前は25ヤードラインもなく、しかも「ダイレクトタッチ」の概念もなく、攻撃側はタッチに蹴り出せばその分だけ前進でき、相手方はマイボールラインアウトからまたタッチ、という試合展開が多く、これではボールゲームとして面白くない、という事で、25ヤードラインと「ダイレクトタッチ」のルールが作られたという。

現在ではキックの地点が22メートル内であっても「味方が22m内に持ち込んだ場合」はダイレクトタッチとされるが、このころは見方が持ち込んだ場合でも良かった。 時にボール保持者が自分で22m内に持ち込んでタッチキックを蹴ることもあり、これを「余裕のプレイ」と見るか「消極的プレイ」と見るかは意見が分かれたと思う。


2.スクラム

現在のようなレフェリーのコールはなく、互いが呼吸を合わせて組んでいた。相撲の立ち合いと同じである。レフェリーも行司と同じ。上手く息があって組み合えば自然にゲームが再開される。

組む前にプロップが互いの肩に手をかけることも義務付けられていなかったと思う。ただし手の届く範囲からは組み合っていた。

これも聞いた話だが、以前はその規定もなく、スクラム時は数メートル離れたところから互いに突進して組んでいた時代もあったという。

組んだ後のプロップの手の位置は現在のように対面に掛けることが義務付けられてはおらず、特に1番の場合、左手を自分の膝に置いて安定姿勢を取る事が多かったと思う。

このような大雑把なものだったので当然スクラムの反則を取ることはほとんど無く、スクラムが崩れば何度でも組み直していた。

スクラムの人数も規定はなく、フロントロウ3人だけで組むのもアリ。
スクラムを回すのもアリ。スクラムが弱いチームはとにかく回してその場をしのぐのも作戦の一つだった。
攻撃側が回して№8が左にサイドアタックって作戦もあった。

SHによるボールインのタイミングは自由で、スクラムが弱いチームの場合、組んだ瞬間にボールを入れてフッカーはダイレクトで出し即バックスに展開、といった作戦が取られた。

ただしノットストレートは現在より厳密で特にスクラムが弱いチームの場合。1試合にいくつかは反則を取られたものだ。スクラムのノットストレートには「カンニングボール」なんて俗称もあった。
ノットストレートが厳密である分、相手方フッカーのフッキングの力量で相手ボールを
奪うことも可能だった。
したがってフッカーは自ボールを確実に確保する技術、相手ボールを奪う技術の向上に日々努めていたものだった。

スクラムのオフサイドラインは現在のような5m後方ではなく最後尾のライン。

スクラム












昭和47年のスクラム
1番I君の手が自分の膝にある




3.ラインアウト

前後左右とも間隔距離の規定は無し。敵味方グシャッと並んでボールを取り合っていた。で、「ラインアウトは反則の巣窟」などと言われていた。
(いやまてよ、なんか2フィートって数字が頭に残っている。相手との間隔、2フィートって規定だったかも)
その後、高2の時に前後の間隔が規制されたように思う。

リフトアップは反則。当時あるOBが「エレベーター」という「裏技」を教えてくれて、試合で使ったがスグにバレてペナルティ取られた覚えがある。その当時わが校には185㎝の長身ロックNさんがいた。たぶん当時の高校生では全国でも最長身クラスだった。大学・社会人でも185を超える人はそうはいなかった時代。
そのNさんを「エレベーター」すれば、そりゃバレるはなあ。

ラインアウトのオフサイドラインも味方の最後尾だったか。

10m後方になったのも高2の時。

人数をボール投入側に合わせなくても良かったが「長さ」はボール投入側より長いと反則。


4。モール、ラック

アンプレイアブル時は常に直前のボール保持側のボールでスクラム再開。この規定はその後たびたび変更が繰り返され、現在に至る。
モール時のレフェリーのコール、「ワンストップ」とか「ユーズイット」などはなかった。モール・ラックはどうにもならなくなるまで続行された。
コラプシングの反則もなかった。私など、モールが押されるとモール事タックルして崩していたものだ。
あぶないなあ、今考えると。

5.フリーキック

当時はフェアキャッチ後以外は「フリーキック」は無かった。現在のような「軽い反則に対するフリーキック」は無かったという事ですね。 フリーキック時、相手方は10m下がらなくてよく、マークのポイントまで出ることができた。しかもキッカーがモーションに入ればチャージに出てよく、したがってフリーキック側はチャージされないためにはマークより数メートル以上下がってキックをした。
しかもフリーキックはマークポイントを越えなければならず、現在のようにタップキックからスタートというのはできなかった。

フェアキャッチができるのは現行の「22メートルライン内」ではなく「自陣」であったような。
どっちにしろ、フェアキャッチなどめったにするものではなく、特に高校生などがしようものなら、みんなあっけにとられたような反応だった時代。
現在フェアキャッチはキッキックオフのボールに対してはできないが当時は可能。このころではないが後にキックオフからのフェアキャッチが流行ったことがあった。
〈追記〉
フェアキャッチ時の規定について貴重なご指摘を頂きました。
そうでしたそうでした。以下追記です。
「マーク」のコールは静止してかつ片足でマークポイントを明示しなければフェアキャッチは認められなかった。
その後「両足をついて静止」でよくなり、さらに走りながらでも、さらにはジャンプして空中でも認められるようになり現在に至る。
また「マーク」の声が審判に聞こえなかった時のためだろう、キャッチ後腕を「カギ型」に曲げてマークの意志を表示することも規定された。
マーク

 























.反則

基本的に「危険な行為」は現在と変わらないが、その適用は現在より甘く、よほどの事がない限りこのペナルティはなかったように思う。

キック時のレイトチャージも現在のように「ボールの落ちた地点から(オプション)ペナルティキックで再開」ではなく、その地点での再開だった。その後「ボールが落ちた地点でスクラム再開」とのオプションとなり現行ルールへと至る。

シンビンはなかったしレフェリーはイエローとレッドのカードも持っていなかった。。ひどい反則にはレフェリーの判断で警告と退場が宣せられた。


.ペナルティキック

ペナルティからのタッチキックの場合、現在のようにマイボールからのラインアウト再開ではなく、通常のタッチキック同様、相手ボールのラインアウトで再開。

したがって現在のように「ペナルティからタッチに出して再開」という選択は自陣25ヤード内からの脱出、という時ぐらいで、大抵はハイパントか、タップキックからの展開あるいはFWの突進などのサインプレイで再開していた。


.インゴール

現在のように「タッチインゴールやデッドボールラインを越えて攻撃側がボールを蹴り出したときは蹴った地点から防御側ボールでスクラム再開」ではなかった。25ヤードラインからドロップアウト。キックオフ時も同様。

したがってロングキッカーがいるチームはキックオフ時や通常のインプレイ時、ハーフウェイ前後から力任せにボールをデッドボールにケリ出せばドロップアウトで再開、相手陣でマイボールで攻撃というのが流行った。これでは試合がつまらなくなると現行ルールが考案されたのはだいぶ後。


.選手交代

選手交代は原則無し。怪我などでやむを得ないとレフェリーが判断し許可した時のみ2名まで交代が認められた。さらにさかのぼれば交代は一切なし、だったという。


10.レフェリー

現在の「アシスタントレフェリー」はあらゆるジャッジを補佐する。

が、当時の「タッチジャッジ」は、タッチとゴールキックの判定を補助するだけだった。

したがって公式戦でも両チームの関係者がこれを務める事が認められていた。

高校生などのチームでは補欠選手がタッチジャッジを務めることが多く、ひどいチームになるとルールもろくに知らない1年生にやらせることもあって、ダイレクトタッチも知らなかったり、どちらの手を上げるかを知らないなんてこともあった。

いやもちろん私の高校ではそういう事はありませんでしたが。WIN_20180916_17_11_31_Pro


昭和50年ころのスパイク
SUZUKI製
(撮影は最近)









11.得点

トライは4点。
ペナルティゴール3点、ドロップゴール3点、トライ後のゴール2点は今と同じ。
ただし当時は「トライ後のゴール」が決まった場合、トライを合わせた得点がキッカーの得点としてカウントされた。
例えば藤原がトライすれば藤原が4点を稼いだことになる。だがその後のコンバージョンを植山が成功させれば個人記録は植山6点で藤原の個人得点は消える。 この頃日本代表のニュージーランド遠征があったが、通算個人記録は当然植山がダントツだった。
トライの得点、以前は全て3点だったと聞いたことがある。
さらにさかのぼればトライは得点にならなかったとか。つまりトライはゴールを狙う「試み」を得る権利が与えられたという事。だから「トライ」。
つまり原始ラグビーにおいてはラグビーは「ゴール数を競う競技だった」という事。 だからすべてのゴール得点は1。当時の試合では例えば8−0の試合は「大差」だった。
その後トライ「にも」得点が認められ、3点さらに4点、5点とトライの比重が高まり基本「トライを競う競技」になったことがわかる。
現在はトライ6点案が、さらに「自陣22mライン以内からの連続攻撃によるトライは8点」案も検討されているという。

12.キックオフとキックティー
当時はキックティーなんてものはなく、ゴールキックを狙う時は、ボールを立てるためグラウンドに穴を掘るか土を盛るかしていた。芝のグラウンドなどめったになかったが、「土を盛る」派のキッカーは、芝では外から土を持参するしかなかった。
試合開始とハーフタイム明けのキックオフもプレースキック。
私もキッカーをやることがあったが、ボールを立てる私のやり方は「スパイクのかかとを地面につけてここを軸にくるりと回転して穴をあける」、というものだった。が、これを続けるとスパイクのかかとが1方向にゆがみ右スパイクだけがすぐにダメになることがわかってやめた。以後は「土を盛る」派。

試合開始とハーフタイム明けのキックオフもプレースキック。

トライの後のキックオフは、相手のコンバージョンが決まった後はプレースキック、外れた時はドロップキックで再開。今考えるとこれはずいぶん面倒で意味不明なルールだった。

いや、軽い気持ちで書き出したら長くなってしまった。ずいぶん変わったものだ。まいったまいった。

ただこうして約半世紀前のルールを振り返ると、改めてラグビーがどこから来てどこに向かうのかが見えてきますね。
パント


おまけ

ムカシのアルバムをあさってたらこんなのも貼ってあった。
昭和48年のイラスト
「昭和48年のショートパント」(笑)




あ。この絵を見て思い出した。当時は高校生もヘッドキャップなしでOK.。
スクラムのプッシュも1mまでの制限はなかった。全て大人のルールと同じ。
ボールだけ違って、小さめの「6面ボール」。

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