おとぶろラグビー夜話

ラグビーに関するあれやこれや。

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清宮2














「清宮代表監督」には問題あり?
清宮克幸氏の「日本代表監督待望論」が根強い。まあ日本人監督とすればこの人しかいないだろう。ああ、沢木敬介氏も実績あり、か。トップリーグ2連覇。しかし待望論はあまり聞こえない。
それはともかく。
清宮氏については
否定的意見もある。
「彼は選手として、監督として国際経験があまりにも乏しい。国際試合を戦うことこそ“日本代表の仕事”である以上、清宮氏ではあまりにも心もとない。」
なるほど、確かにかつてのスター的日本人代表監督、宿沢氏・平尾氏に比べられるとつい納得してしまう。
宿沢氏といえば代表SHとして国際試合を何度も経験している、と思ったが代表キャップはなんと3。同時代に今里という名ハーフがいたとはいえこれは驚きではある。当時は選手交代は負傷時のみ2名までだったのでこんなものなのか。英仏遠征には行ったはずだ。ウェールズ戦には出ていた。これを合わせても3か。
大学卒業から間もなく現役を引退したものの、金融マンとして英国勤務も長かった。当然、英語も堪能であった。
また英国勤務中も当地で見る「本場のラグビー」について日本協会に自主的にレポートを送っていたとの「伝説」も伝えられる。キャップが少ないとはいえ文句なしの「国際派」ではある。
平尾氏は同志社卒業後は英国に留学。一時ファッション誌に出るなどの「アマチュア規定違反」などで干されたことはあったものの、常に日本代表の中心、キャプテンとして多くの国際試合にも出場してきた。キャップは35。
この35も原則途中交代なしの時代の数字であるので現代とは比較できない。

こうしてみると二人に比べ、清宮氏の経歴は確かに国内に偏ってはいる。。代表キャップもゼロ。
外国留学も外国勤務もない。「国際派」とはとても言えない。
ただし日本で他に「国際派」と言える人材がいるかというと見当たらない。単に海外でプレイした実績であれば。岩淵健介氏、村田亙氏などがいるが、指導者としての実績はほぼない。
で、「国際派」にこだわれば必然的に外国人てことになるのが実情である。

エデイ
エディ・ジョーンズは「国際派」だったのか
だが待て。
あのエデイ・ジョーンズはどうか。
現役選手としては「州代表」まで。国際試合もあったかもしれないがまあそんな程度ではある。その後は高校教員、校長などを勤めている。
ラグビーコーチとしてのスタートは東海大。彼にとっては「国際派」へのデビューではある。「ラグビー後進国・日本」での。
その後日本代表FWコーチ、サントリーFWコーチ経て、母国オーストラリア・ブランビーズのヘッドコーチに就任。そのあとはもう、とんとん拍子にオーストラリア代表ヘッドコーチ、南アフリカ・アドバイザー、イングランド・サラセンズ・ヘッドコーチ、サントリー・ヘッドコーチ。
そして日本代表ヘッドコーチとしてワールドカップで南アを撃破。3勝を上げる。
その後ラグビーの母国イングランドのヘッドコーチとして現在に至る。

こうして見ると、あのエディですら現役時代から「国際派」なんぞでなかったことがわかる。もちろん日本とオーストラリアでは国情が異なる。オーストラリア国内にいるだけでも、日本国内にいるだけに比べれば「十分国際的である」と言う言い方も可能ではある。
まあオーストラリアの「州代表」がどの程度の国際試合をこなすかは知らないが対戦相手は世界のトップレベルではないことは確かだろう。そういう意味では清宮氏だって、高校日本代表でキャプテン、U23代表として米国に勝利、日本選抜でオックスフォードに勝利、と代表には選ばれなかったものの、ソコソコの国際経験はある。
逆に若くして国際試合に多数出場し、あるいは留学・ビジネスなどで「国際経験」豊富である人物など、今の日本、いくらでも存在する。
だがそんなものが「代表監督」の十分条件でなどありえないのは当然である。
エディを見れば必要条件でもないことが見えてくるだろう。
結局は「指導者としての実績」なのだ。

森保一













サッカー代表監督の森保氏も「国際派」なんかではない
サッカーでは現在、森保一氏が代表監督を務める。彼はあの「ドーハの悲劇」に出場するなど代表暦はソコソコあるものの決して「不動の代表」などではなかった。当然「国際経験」もソコソコである。海外チームでのプレイ経験もない。だが現在、代表監督として着実に実績を残していることに異存はあるまい。
もちろんその「実績」は森保氏個人だけのものではなく、日本サッカー、Jリーグの長期的展望とその展開と不可分であることはいうまでもない。
ただサッカー界にしろ、オフト以来、加茂の解任、岡田の緊急出動、そしてオシムが倒れて再び岡田の緊急出動、を除けばずっと外国人監督が続いてきた。そしてロシア大会直前の、西野の緊急出動。
そして次、緊急出動ではなく、腰を据えた日本人監督があるとしたら、選手としての国際経験、単に代表として国際試合をこなした、というだけでなく、自身が外国のトップチームに所属し、その主力を務めるなどの「ナマの国際経験」を積んだ「中田英寿世代」以降になるだろう、というのが大方の見方ではあった。つまり「もう少し先の話」。
だがサッカー界は「今」、森保氏を抜擢した。
いや「抜擢」などという言葉はふさわしくないだろう。「当然の選択」というべきか。
サンフレッチェ広島の監督として、名将ペトロビッチの後任として常に優勝争いを維持してきた。就任以来4年間で3度の優勝。ペトリビッチ時代を含め、浦和などの「ビッグクラブ」に代表クラスの選手を次々「引き抜かれ」ながらも優勝争いを続けたのはぺトロビッチ監督ごと「引き抜いた」浦和ではなく、森保氏率いる広島であり続けた。
この間他のJチームは浦和以外にも、代表クラスを揃え、外国人監督を起用してきた例もあったが、森保氏ほどの結果を出した監督はいない、ということだ。
その後ACLなど「国際試合」では実績を残せず広島監督は解任。
やはり国際試合には弱かっった?

だがその後、2020東京五輪に向けた代表監督に就任、さらにフル代表の監督にも就任。五輪・フル代表を兼ねる名実ともに日本サッカーの強化の現場最高責任者として今に至る。
まさに「国際経験」「国際試合の実績」などではなく、「国内リーグの指導実績」のみで選ばれたと言っても過言ではあるまい、そして結果を残している。
数々の「失敗」も繰り返してきた日本サッカーの代表監督選び。その後にたどり着いた結論が「森保」だったのだ。
今から見れば「広島監督解任」も「代表監督就任」への布石・準備だったのではないかとも思える。協会主導の。

代表監督に求められるのは「勝ち切る力量」である
つまり、そういうことなのだ。
代表監督にふさわしいのは「国際経験」や「語学力」よりも、国内リーグというある意味年間を通じて最も過酷な、そして「地力」を問われる戦いの中で勝ちきれる力量、これに尽きるのではないか。
そして育成力。もちろん代表監督はチームの監督とは異なり、選手やチームをじっくり育成する時間など限られている。だがそういう限定された範囲でもやはり「育成力」は問われる。特に最近は代表であっても年間かなりの「集合」が可能となっている。試合も含め。

国際経験、語学力、そういうものはもちろんあったほうがいいに決まってはいる。
だがそれらは有能なスタッフがいればいくらでも代えがきく。
だが一つの試合、さらには連続した試合に一つ一つ勝ち切る、準備・作戦・選手選考・そして試合中の臨機応変の対応、短い時間でも選手を飛躍させるコミュニケーション能力、創造的練習、などは代えの効かない、まさに「監督の力量」なのだ。
そしてその「力量」から生まれる「カリスマ性」
その対応において、国内リーグ、国際試合の区別などない。

清宮氏の実績はサッカー森保氏の実績と重なる
そうした力量を買われ森保氏は代表監督に選ばれ結果を残している。もちろん選手の信頼も厚いという。
そして清宮氏。
早稲田監督、ヤマハ監督を通じ、常に弱体したチームを立て直してきた。
ヤマハ選手の「個の力」、ヤマハ入団以前の「実績」などは、全トップリーグ中、下から数えたほうが早いのではないか。外国人など、以前のトゥイアリ、現在のスミス以外はスーパーラグビーに手の届かなかったような選手ばかりだ。
日本人で言えば五郎丸・太田尾・矢冨・山村らベテラン世代以降は大学のトップ選手はほぼいない。

そういう中、ここ数年常に優勝争いを続け、日本選手権のタイトルも手中にした。
その上でヤマハで育った選手が何人も代表入りしている。
もちろんこの間、トップリーグには世界レベルの選手と日本代表クラスの選手を揃え世界レベルのヘッドコーチが指揮する、そういうチームもも多数存在している。そういう中でのこれだけの実績。
まさにサッカーの森保氏とも重なる。

トップリーグの「世界的名将」の実績を考える
トップリーグには現在「世界的名将」とも言えるヘッドコーチが何人もいる。パナソニックのロビー・デイーンズ、トヨタのジェイク・ホワイト、神戸の総監督ウェイン・スミス。
そうそうたる面々である。だがパナソニック、神戸の場合、これらのチームはまた選手も世界的、あるいは日本代表クラスが目白押し。そういうメンバーを揃えた上でで優勝争いをするチームの監督が「日本代表監督」にふさわしいのかは甚だ疑問ではある。
私、個人的にはパナのラグビーが好きで、これを指揮するロビー・デイーンズもスゴイと思う。だが一方、「あれだけのメンバー揃えればこそだなあ」とも思うのだ。例えばヤマハ並みのメンバーであのラグビーができるのか。あれだけの成績が残せるのか、と。
さらにはあれだけのメンバー揃えながら優勝できなかった昨シーズンはなんなんだ、とも。

ある評論家はパナソニックの昨季の不振についてこう解説していた。
「やはりバーンズの負傷欠場が痛かったですね。」
はあ〜?
そりゃバーンズの欠場は痛い。私、個人的にもバーンズは大好き。彼がスタンドを務めるとバックスラインが一気に活気付く。さらにキック処理で後ろに下がってからの動きもいい。一見忠実なプレイスタイルに見えて、時に大胆奇抜なカウンターアタックを仕掛ける。
くー!たまらんな。 しかしそのバーンズとはいえ、彼がいないとパナは一気に沈没してしまうのか。スタンドができるのは他に、山澤、松田力也、森谷、笹倉、代表クラスがいくらでもいる。野口だってやれるだろう。
結局パナはバーンズの個人的力量に「おんぶに抱っこ」ってことなのか。
一方ヤマハのスタンドなんてキャップゼロの太田尾がほぼ出ずっぱりだった、。太田尾引退後は関東リーグ戦2部東洋大出の清原と、もう一人やはり世界的には無名のマッガーン(経歴には卒業高しか書いていない)。
これで優勝争いに毎年食い込むのが「ヤマハの底力」、それを引き出す「清宮の底力」、と言うべきだろう。

今年15年ぶりに優勝を果たした神戸の躍進は素晴らしい。だがここもダン・カーターの加入でアンドリユー・エリス、アダム・アシュリークーパー、日和佐らその他代表クラスの底力を一気に開花させたとの見方に異存はないだろう。「監督の力量」がどれだけだったのかはちょっと判断ができない。
もちろんどんな名選手を揃えようとも監督スタッフがヘボならどうにも結果を残せない。
同じ神戸でもサッカーのヴィッセルなどイニエスタ・ビジャ・ポドルスキーなど世界のスーパースターを揃えてもどうにも勝てない。監督人事も二転三転のドタバタである。それに比べれば神戸コベルコはちゃんとした結果を残したとは言えるだろう。
いやサッカーの神戸など揶揄してる場合じゃない。
トップリーグの東芝。
神戸にも引けを取らないメンバーを揃えながら2年続けての低迷。
こうした例を見れば、多くの「スター選手」を率いてきっちり結果を出すというのも一つの「名指導者像」ではある。ただしこのタイプの「名指導者」はサッカーにしろラグビーにしろ、日本代表の求める監督像ではないだろう。
サッカーでは、鹿島アントラーズのアドバイザーとしてあれだけの実績を残しなたジーコだが、が代表監督としての結果は物足らないものだった。
アントラーズではジーコ直輸入のブラジル人現役代表クラス選手を中心に多くの日本人スターを育て、Jリーグに大きな実績を残した。だが、ワールドカップで世界と戦う時、世界的選手などせいぜい中田英寿ぐらいのチームではやはり同様の戦い方では通用しなかった。
やはりジーコも「スター軍団」を率いてこそ「結果」を出すタイプでの「名指導者」であったということなのだろう。

ういう意味ではトヨタを率い、「弱くはないが強くもない」、藤島大氏言う所の「何処に勝ってもおかしくない、何処に負けてもおかしくない」チームを一躍優勝争いに食い込ませたジェイク・ホワイト氏の監督としての力量は注目に値する。学生時代、突出した活躍を見せたわけでもない姫野を1年目からキャプテンに「大抜擢」しその潜在能力を一気に開花させた判断・力量はさすがのものである。


代表監督には「日本理解」が不可欠だ
一方日本代表監督は日本のラグビー事情、文化、国民性などを深く理解している人材であるべきであると思う。別に情緒的な話をしているのではない。チームとして結果を残すため、その国と国民性を理解していることは不可欠なのではないか。
その点サッカーの外国人代表監督はやや失敗が多かったと言える。オフト、ジーコ、オシム以外は皆「いきなり日本に連れてきた」。ファルカン、トルシエ、ザッケローニ、アギーレ、ハリルホジッチなど。
で、結果といえばワールドカップ出場は果たせたものの選手の力量を十分に引き出せたとは言えない、と私は思っている。トルシエはベスト16を果たしたがこれは監督の力量と言うよりは、開催国のアドバンテージ、と見るべきだろう。あるいは選手の力量。
逆に代表選手の力量を最大限に発揮させたのは2010年南アフリカワールドカップの岡田氏、2018年ロシア大会の西野氏だろう。ともにベスト16。ともに「緊急出動」だったにもかかわらずだ。
もちろん二人とも日本人。日本の事情は十二分に理解・把握している。
もちろん両者に共通しているのはJリーグ監督として、実績・結果を残していることだ。ともに「スター軍団」を率いてのものではない。
岡田氏は札幌をJ1に昇格させ、その後横浜Fマリノスを1年目から2年連続優勝に導いている。
西野氏はG大阪を常勝チームに育て2度の「Jリーグ最優秀監督」に選ばれている。
また2008年のクラブワールドカップでは欧州チャンピオンのマンチェスターユナイテッド相手に5点は失うも3点取る豪快なサッカーを指揮して見せたのは未だ記憶に新しい。
アトランタオリンピックでブラジルには勝利したものの、その「消極的采配」で一部から批判を浴びたのがウソのような攻撃的采配だった。


ラグビーにおいては「いきなり日本に連れてきた」外国人監督といえばフランス人エリサリド。やはり勝敗以前に「失敗」に終わっている。それ以降は、カーワン、ジョーンズ、ジョセフ、皆、日本で数年以上の選手経験、あるいは指導者経験を積んでの「代表監督」だった。日本協会として賢明な選択であったと思う。「他に知らなかった」のかもしれないが。
そしてエデイは見事に結果を残した。果たしてジョセフは?

代表監督の条件とは

さてここらで代表監督の「条件」が見えてきた。
第一に、監督としての実績があること。これは海外での実績に限定することはない。サッカーの例を見ても、日本の国内リーグで「結果」を出していれば何よりの実績であると言える。
次に、ただ実績と言っても「スター軍団」を率いての「実績」であるのならこれは「日本代表監督」にはふさわしいとは言えない。現在日本ラグビーがどれだけ躍進していようとも、こと「個の力」としてみればやはり全体として「世界のトップ」との差は認めざるをえない。そうした現状の中で世界に勝ち切るには「個の力」で劣っていても勝つ、そういう戦略、監督としての力量が求められる。
(もちろん個々の選手、あるいは指導者は「個の力」だって負けない、と言う気概は求められる。姫野もそう断言していた。だがその「気概」と「具体的戦略」はまた別の話。)

これはサッカーにおいても同様である。代表クラスを次々引き抜かれても勝ち続けた広島を率いた森保氏の実績、リーグ初優勝を遂げた岡田・西野両氏、当時代表クラスゼロで常に優勝戦線に食い込んだ千葉を率いたオシム。当時千葉は対戦相手から「千葉は攻撃になると選手が2人ぐらい多いんじゃないか」と試合中思われたという。そういう戦略。


第二に、代表監督は日本人の国民性・文化・ラグビー事情に精通していること。外国人であるなら日本に選手としてあるいはスタッフとして数年以上の「関わり」があること。
「いきなり日本に連れてくる」のはダメ。

こうした条件を満たす人材は現在世界にいるのか
これらの条件を満たす人材を考える。

今回のワールドカップで高い実績を残せばジェイミー・ジョセフ続投、と言う選択もあるだろう。しかしそれは本人が望まないのではないか。その時点で新しい選択をするのではないか。エディもそうしたように。
一方「かつて数年以上日本でプレイ、あるいはスタッフとして滞在し、現在海外リーグで指導者として高い実績をあげている人物」がいればもちろん有力な候補となりうる。しかしその辺については私は詳しくはないので判断はできない。。
その上で、私の知る限り、上記の条件を満たすのは、清宮克幸、彼しかいない、のだ。
私は別に「日本代表監督はやはり日本人で」などと狭い了見の話をしているのではない。世界を見渡してどこの国籍であれ最良の選択をすべきである、と思っている。

差をつけた「次点」でジェイク・ホワイトか。彼は今後一気に最有力にのし上がる可能性はある。


最後に愚痴と結論と・・・。
「国際性など必要ない」とは言ったものの、やはり清宮氏のその点は気にはなる。 ジョセフにしろサッカーの森保氏、岡田氏、西野氏にしろ、現役時代の「国際性」など皆ソコソコである。清宮氏もこの点では問題は全くない、と考える。
ただ、上記4人とも代表監督を受ける前にそれぞれスタッフとして大きな国際大会に関わっている。岡田氏は加茂監督の下でコーチ、西野氏は五輪監督、エデイの場合はスーパーラグビーという国際リーグのヘッドコーチ。
清宮の場合これがない。指導者としては単発の国際試合があるだけである。
先述したように、森保氏の場合日本協会が積極的に森保氏に国際経験を積ませたとも思える。その卓越した監督実績を踏まえ、将来の「代表監督」を見据えて、五輪代表監督、ロシアワールドカップのコーチを経験させ、その上での代表監督。
ラグビー日本協会もこのぐらいの「長期展望」が欲しかった。最終的に誰が次期代表監督になるにしろ、その有力候補として清宮氏をなんらかの形で大きな国際試合に参加させるべきだった。
まあそれは愚痴である。時間は戻せない。日本協会の「展望のなさ」であるとも言える。
この上は超有能な「国際派」スタッフをつけて清宮氏の「卓越した監督の力量」を代表監督として発揮してもらいたい。
いや今からでも遅くない。来るべき日本ワールドカップに何らかのスタッフとして清宮氏を全行程帯同させてはどうか。清宮氏にとって、日本ラグビーにとって、その経験は大きな財産になるはずだ。「代表監督・清宮」にとっての唯一の「危惧」もこれで解消される。

ま、「最良の選択であれば誰でも」とは言ったもの、やはり「清宮代表監督」、見てみたい。
彼がどんなメンバーを選び、どんなラグビーをするのかを見てみたい。
それは清宮氏が日本人であるからではなく、国籍・出身がどうであれ、清宮氏が卓越した実績と将来への展望を抱かせる清宮克幸その人であるからだ。










昭和49年。
秩父宮ラグビー場はこの前年よりスタンドの改修工事が始まっていた。だが解体は終了したものの、翌年以降「予算が付かなかった」とかで工事は中断。この事態は大学ラグビーの人気カードや日本選手権などが国立競技場で開催されるきっかけともなる。
「人気カード」以外は大学の練習グラウンドで公式戦が行われた。横浜の三ツ沢競技場も使われた。八幡山、東伏見、三ツ沢にはよく通ったものだ。当時私は受験生。何やってんだか。


一方、秩父宮はスタンドもフェンスも管理人もないまま放置されていた。

そんな中、当時高3だった私はしばしば授業をさぼって、ぶらりと秩父宮を訪れ、当時珍しかった芝のグラウンドを楽しんでいた。時に昼寝をし、時にボールを持ちこみゴールキックの練習などしていたものだ。
その日も秩父宮に入る。いつもと違い人の気配が。みんなジャージ姿だ。
ああどっかのチームが練習場として利用しているのだな。
と見ると、あ、あれは宿沢、あれは寺井、やや村田も横井もいる。植山、森、原、小笠原、石塚も。
「全日本の練習だ!」
もちろんスマホもカメラ付きガラケーもない時代。
翌日は小学生の時買ってもらった「オリンパスペン」を引っ提げてラグビー部の友人も誘って再訪。
いやまてよ、その日のうちに家にオリンパスペン取りに行った気もする。う~ん、思い出せない。
(注・当時は他の競技も含め、「日本代表」とは言わず「全日本」とよんでいた。)

この記事ではこの時の写真13枚を45年目にして初公開。合わせて当時の日本代表を振り返ってみる。

ただし例によって全て現在の私の記憶に基づく。検索・事実確認など一切しないので間違い・思い違いもありうることをお断りしておく。(ただ名前の間違いは失礼にあたるので伊藤忠ユキ氏・石塚武オ氏については確認の上それぞれ、忠幸氏、武生氏と記した)
登場する選手達は当然すでに現役を引退し、他界された方もいる。もちろん私よりも「先輩」であり、お名前には「敬称」をつけるのが礼儀と言うものだろう。だがここではあえて当時の私のあこがれと敬意をこめて「呼び捨て」とさせていただく。

この時期、翌年にウェールズ来日を控えての合宿だったのではないか。皆、神宮球場方面から歩いて秩父宮に来ていた。日本青年館あたりが宿舎だったか。
この日、コーチ・監督などはいなかった。選手たちの自主練習だったか。
いやこの合宿、その後も何日か行ったが監督コーチは見た覚えがない。当時は専従監督もいない時代。夜のミーティングと日曜ぐらいしか出なかったのだろうか。当時の監督が誰だったかも思い出せない。日比野弘氏あたりかな。
メディアの姿も一度もみなかった。

秩父宮5














前から坂田(近鉄)、伊藤忠幸(リコー)、そしてキャプテン横井章(三菱自工京都)。
(2番目はもしかして違うかも)
これFWの練習。仮想ラックに突っ込む。これ私らもやっていたが、今思えば実戦には結びつかない練習。現在は絶滅した練習だろう。
だがバックス3人の重鎮が楽しそうにかつ真剣に取り組む姿勢がうれしい。
下の写真がこの後の図。メンバーは違うが。

秩父宮4












左から原進(近鉄)ひとりおいて寺井(新日鉄八幡)小笠原(近鉄)。FWの重鎮3人。
原は後のプロレスラー「阿修羅・原」リングネームの名付け親は作家野坂昭如氏。当時中年すぎてラグビーを始めて話題になっていた。原は1・3をこなすプロップ。体重は80㎏そこそこだが、当時の日本のプロップは皆そんなものだった。プロレスラーになり100㎏を越えた原は「この増量ノウハウをラグビー界に伝えたい」と語っている。どこかの世界選抜に日本人として唯一№8として出場した。原が着ているのはフランスの代表ユニフォーム。前年の英仏遠征でのフランス戦でジャージ交換したものだろう。
寺井は日本ラグビー界待望の190㎝越えのロック。ただし寺井引退後は190㎝代のFWはしばらく途絶える。
小笠原もロック184㎝。これでも当時大きい方だった。大学ラグビーなどでは170㎝代のロックも珍しくなかった時代。当然豪快なプレイが持ち味だったが、2・3人吹き飛ばした後、周りを見てパスコースを探すような「余裕の技巧派」でもあった。引退後は母校弘前実業でラグビーを教えていた。ただし本人がラグビーを始めたのは高卒後の自衛隊だったような。(元祖福坪?)
ロックでは、この日はいなかったが、当時リーグ戦2部だった東海大の袋舘龍太郎がいた。スロワーの石塚と二人で来てラインアウトの練習を繰り返していた。
秩父宮12
№8村田義弘(リコー)
寺井に次ぐ長身185㎝。ただし今から見るとかなり細身だった。
日本選手権でのトライ後のガッツポーズは当時のラグビー界では異例だった。あんまりかっこよくて同じ№8だった私はトライ後そのポーズを真似したものだ。
ちなみに写真の右側は私。

№8といえば当時東洋大に佐藤肇という選手がいた。デカい体でランもキックもパスもこなし、決して強豪ではなかった東洋大を、攻守とも一人で牽引していた。ペナルティ時のタッチキックなども彼が蹴っていた。ゴールキックも蹴っていた気もするがこれは確かではない。
とにかく大学生の中に一人Nコムのブリッツあたりがいる感じ。異次元の存在だった。これは将来の日本代表の主力を担う才能だ、と思ったものだ。学生代表にも早慶明選手ばかりの中で一人選ばれていた。
だがその後の活躍を私は知らない。
「消えた天才」か。
秩父宮7














左からロック柴田(東京サンヨー)、小笠原、ウィング金指(早稲田)、原、プロップ黒坂。
うーん、金指と黒坂は自信がない。(追記・黒坂はフッカーとの有力情報がありました)
柴田も184㎝ぐらいだったと思う。
背景はメインスタンド側だが、ただの土手。改修中はこんなだった。
秩父宮11
















言わずと知れた宿沢広朗と寺井。
一番の長身と短身二人を呼びつけてポーズを取ってもらった。
今思うと冷や汗モノ。
宿沢はこの時大学卒業後かな。
早稲田卒業後はチームには属さず銀行マンに。たぶんこのウェールズ来日ぐらいでプレイヤーとしては引退したのではないか。後に代表監督。
この黒地に白のアニメジャージは野坂昭如氏主宰のアドリブクラブのユニフォーム。さすがクリエイターたちが集まったクラブ。デザインセンスが違う。
秩父宮14












手前の縞ジャージは明治のキャプテン、プロップ高田司か。
一番右は早稲田の3年石塚武生。
4年でキャプテン。後にリコー。
小柄なフランカーの代名詞。170㎝だったか。
この翌年来日したウェールズにぼろ負けした中で、ウェールズのウィング、100m10秒6のウェールズ記録を持つJ.J.ウィリアムスが独走態勢に入るが、フランカーのバックアップコースを忠実に「カニ走り」して猛タックルで止めたシーンは今も目に焼き付いている。
秩父宮10













宿沢のパスを受けるFB植山信幸。早稲田の4年。日本で初めてプレースキックにインステップキックを持ち込んだ。ハーフウェイからのゴールは時にスクリューキックとなりゴールに吸い込まれ、観衆の度肝を抜いた。
インステップキックを見慣れていない我々はそういうものかと思ったものだが、これ以降あんなボールの回転は見たことがない。

宿沢のパスにも注目。
現在はショートパス以外は基本スクリューだが当時はボールを無回転で相手に届けるのが「正しいパス」とされた時代。入部するとまずこのパスができるようになるまで練習した。
ただこのころからぼちぼちスクリューパスが導入され、ビッグゲームでボールボーイがスクリューパスでボールを返却したりすると会場がどよめいたものだ。

写真ではSHは宿沢しか見当たらないが別の日には今里(近鉄)と松尾雄治(明治→釜石)の姿もあった。
あの松尾は当時SHだったのだ。スタンドオフになったのは釜石入ってからか。(追記。この時松尾2年。翌年にSO転向との有力情報がありました。)
SHとしての松尾は当時から「天才」とは言われたものの必ずしも評価は高くなかったと思う。なにしろ今里・宿沢のような従来のSHのイメージとは違いすぎた。
当時のSHはとにかくよく飛んだ。現在のように密集(ブレイクダウンなんて言葉は当時なかった。)周辺のSHがルールで守られていなかったというのもあるし、スクリューパスがなかった時代、小柄なハーフが「伸びのあるパス」を投げようと思えば飛ぶしかなかったというのも理由だろう。また「飛ぶ」という気合の入ったプレイで見方を鼓舞するという意味もあったかもしれない。
そんな時代、松尾はほとんど飛ばなかった。すでにスクリューパスをマスターしていたし、何より判断力と読みが売り物だった松尾にとって「飛べば次の動きが遅れる」ぐらいの気持ちだったのだと思う。(宿沢も判断力と読みが売りではあったが。)
そんな松尾だが、ここでのパスの反復練習中、誰かに「飛べ!」と声をかけられて最後の一本だけいやいや飛んでいたのを覚えている。
少なくとも当時の日本では彼の「天才」を生かすにはスタンドオフへの転向は大正解だった。

秩父宮6














手前、宿沢の隣は有賀健(日体大)。サントリーの有賀剛の父親。日本のスポーツ界では珍しい「父子二代の名選手」。
ちなみに有賀健の日川高校の同級生にはプロレスのジャンボ鶴田、サッカー日本代表の清雲がいたという。
秩父宮3














中央が藤原優。日川高校時代に代表に呼ばれる。174㎝(?)70㎏代の体格は当時のバックスとしては「巨体」だった。ウィングとセンターをこなす。
当時来日する外国チームにぼろ負けしていても、最後には藤原が1トライは決めて、ファンの留飲を下げさせてくれたものだ。
現在は絶対にありえないことだが当時は例えばケンブリッジ大が来日しても最終戦は「全日本」が対戦していた。国代表が他国を訪れた場合、現地の単独チームと対戦することはあるが、単独チームが他国を訪れて国代表と対戦するなど世界の常識外、だった。当時日本はそんなレベルだったという事だ。実力的にも国際常識的にも。

藤原の左は法政出のセンター吉田か。当時センターの12・13は現在の「インサイド・アウトサイド」ではなく「左・右」だった。「インサイドセンター」の概念を導入し、自ら実践したのは後の平尾誠二だと思う。
藤原の右、赤いジャージはリコーのフランカー6番井沢か。
フランカーの「6,7番」も現在のような「ブラインド、オープン」ではなく「左、右」だった。この時代の7番と言えばあの山口良治。後のスクールウォーズである。当時は京都市役所。代表のゴールキッカーも務めていた。このころはトウキック。この合宿では見かけなかったような。

秩父宮13
















左から、藤原、センター森重隆(明治→新日鉄釜石)現ラグビー協会会長、石塚。
森はまだヒゲを生やしていないか。170㎝に満たない、60㎏代は当時としては極端に小柄なわけではなかった。ただ外国に行くとセンターと言っても信じてもらえなかったとか。
彼をしのぐキレキレのステップと瞬時のスピードは未だ見たことがない。あ、福岡が匹敵するか。タイプは違うが。
(う〜ん。これ森じゃないかも。森にしては大きい気もする。果たして森に「ヒゲなし時代」があったのか、とも)

秩父宮8



















左は早稲田のスタンドオフ中村康司。宿沢と同期。
この日の写真にはないが、この時代のスタンドオフと言えば井口と蒲原。
蒲原は早稲田卒業後チームには所属せず「天理教本部」勤務だった。そんな形で代表を続けていた。
当時は選手交代は「負傷の時レフェリーが認めたときのみ2名まで」だったので、中村、代表での出番はほぼなかったと思う。

秩父宮9














これも中村と植山。


秩父宮15





この合宿最年少の藤原。ボールのかたずけは彼一人の仕事だったかも。もちろん革製紐編みボール。



この写真にはフッカーが一人も登場しない。時代的には大東和美(早大出)がいたはず。ただ彼もスタンドオフ蒲原、宿沢らと同様、卒業後はチームに所属しなかった。それでいて3人とも代表選出。まあのどかな時代ではある。3人とも早稲田。
大東は後にJリーグチェアマンになる。


この後、秩父宮の改修は無事終了するが、この間空前の「大学ラグビーブーム」となる。
国立競技場の早明戦は観衆6万を超え東京オリンピック以来の満員を記録する。当日現場の観客席にいた私はバックスタンドの聖火台の下、ゴール裏まで人で埋まるのを友人たちと呆然と見つめていた。いったい何が起こったのだ、って。
このため、秩父宮完成後も大学の人気カードはしばらく国立競技場でおこなわれることになる。
岸体育館内のラグビー協会で手に入った「学生部員券50円」も廃止された。















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