昭和49年。
秩父宮ラグビー場はこの前年よりスタンドの改修工事が始まっていた。だが解体は終了したものの、翌年以降「予算が付かなかった」とかで工事は中断。この事態は大学ラグビーの人気カードや日本選手権などが国立競技場で開催されるきっかけともなる。
「人気カード」以外は大学の練習グラウンドで公式戦が行われた。横浜の三ツ沢競技場も使われた。八幡山、東伏見、三ツ沢にはよく通ったものだ。当時私は受験生。何やってんだか。
一方、秩父宮はスタンドもフェンスも管理人もないまま放置されていた。
そんな中、当時高3だった私はしばしば授業をさぼって、ぶらりと秩父宮を訪れ、当時珍しかった芝のグラウンドを楽しんでいた。時に昼寝をし、時にボールを持ちこみゴールキックの練習などしていたものだ。
その日も秩父宮に入る。いつもと違い人の気配が。みんなジャージ姿だ。
ああどっかのチームが練習場として利用しているのだな。
と見ると、あ、あれは宿沢、あれは寺井、やや村田も横井もいる。植山、森、原、小笠原、石塚も。
「全日本の練習だ!」
もちろんスマホもカメラ付きガラケーもない時代。
翌日は小学生の時買ってもらった「オリンパスペン」を引っ提げてラグビー部の友人も誘って再訪。
いやまてよ、その日のうちに家にオリンパスペン取りに行った気もする。う~ん、思い出せない。
(注・当時は他の競技も含め、「日本代表」とは言わず「全日本」とよんでいた。)
この記事ではこの時の写真13枚を45年目にして初公開。合わせて当時の日本代表を振り返ってみる。
ただし例によって全て現在の私の記憶に基づく。検索・事実確認など一切しないので間違い・思い違いもありうることをお断りしておく。(ただ名前の間違いは失礼にあたるので伊藤忠ユキ氏・石塚武オ氏については確認の上それぞれ、忠幸氏、武生氏と記した)
登場する選手達は当然すでに現役を引退し、他界された方もいる。もちろん私よりも「先輩」であり、お名前には「敬称」をつけるのが礼儀と言うものだろう。だがここではあえて当時の私のあこがれと敬意をこめて「呼び捨て」とさせていただく。
この時期、翌年にウェールズ来日を控えての合宿だったのではないか。皆、神宮球場方面から歩いて秩父宮に来ていた。日本青年館あたりが宿舎だったか。
この日、コーチ・監督などはいなかった。選手たちの自主練習だったか。
いやこの合宿、その後も何日か行ったが監督コーチは見た覚えがない。当時は専従監督もいない時代。夜のミーティングと日曜ぐらいしか出なかったのだろうか。当時の監督が誰だったかも思い出せない。日比野弘氏あたりかな。
メディアの姿も一度もみなかった。

前から坂田(近鉄)、伊藤忠幸(リコー)、そしてキャプテン横井章(三菱自工京都)。
(2番目はもしかして違うかも)
これFWの練習。仮想ラックに突っ込む。これ私らもやっていたが、今思えば実戦には結びつかない練習。現在は絶滅した練習だろう。
だがバックス3人の重鎮が楽しそうにかつ真剣に取り組む姿勢がうれしい。
下の写真がこの後の図。メンバーは違うが。

左から原進(近鉄)ひとりおいて寺井(新日鉄八幡)小笠原(近鉄)。FWの重鎮3人。
原は後のプロレスラー「阿修羅・原」リングネームの名付け親は作家野坂昭如氏。当時中年すぎてラグビーを始めて話題になっていた。原は1・3をこなすプロップ。体重は80㎏そこそこだが、当時の日本のプロップは皆そんなものだった。プロレスラーになり100㎏を越えた原は「この増量ノウハウをラグビー界に伝えたい」と語っている。どこかの世界選抜に日本人として唯一№8として出場した。原が着ているのはフランスの代表ユニフォーム。前年の英仏遠征でのフランス戦でジャージ交換したものだろう。
寺井は日本ラグビー界待望の190㎝越えのロック。ただし寺井引退後は190㎝代のFWはしばらく途絶える。
小笠原もロック184㎝。これでも当時大きい方だった。大学ラグビーなどでは170㎝代のロックも珍しくなかった時代。当然豪快なプレイが持ち味だったが、2・3人吹き飛ばした後、周りを見てパスコースを探すような「余裕の技巧派」でもあった。引退後は母校弘前実業でラグビーを教えていた。ただし本人がラグビーを始めたのは高卒後の自衛隊だったような。(元祖福坪?)
ロックでは、この日はいなかったが、当時リーグ戦2部だった東海大の袋舘龍太郎がいた。スロワーの石塚と二人で来てラインアウトの練習を繰り返していた。

№8村田義弘(リコー)
寺井に次ぐ長身185㎝。ただし今から見るとかなり細身だった。
日本選手権でのトライ後のガッツポーズは当時のラグビー界では異例だった。あんまりかっこよくて同じ№8だった私はトライ後そのポーズを真似したものだ。
ちなみに写真の右側は私。
№8といえば当時東洋大に佐藤肇という選手がいた。デカい体でランもキックもパスもこなし、決して強豪ではなかった東洋大を、攻守とも一人で牽引していた。ペナルティ時のタッチキックなども彼が蹴っていた。ゴールキックも蹴っていた気もするがこれは確かではない。
とにかく大学生の中に一人Nコムのブリッツあたりがいる感じ。異次元の存在だった。これは将来の日本代表の主力を担う才能だ、と思ったものだ。学生代表にも早慶明選手ばかりの中で一人選ばれていた。
だがその後の活躍を私は知らない。
「消えた天才」か。

左からロック柴田(東京サンヨー)、小笠原、ウィング金指(早稲田)、原、プロップ黒坂。
うーん、金指と黒坂は自信がない。(追記・黒坂はフッカーとの有力情報がありました)
柴田も184㎝ぐらいだったと思う。
背景はメインスタンド側だが、ただの土手。改修中はこんなだった。

言わずと知れた宿沢広朗と寺井。
一番の長身と短身二人を呼びつけてポーズを取ってもらった。
今思うと冷や汗モノ。
宿沢はこの時大学卒業後かな。
早稲田卒業後はチームには属さず銀行マンに。たぶんこのウェールズ来日ぐらいでプレイヤーとしては引退したのではないか。後に代表監督。
この黒地に白のアニメジャージは野坂昭如氏主宰のアドリブクラブのユニフォーム。さすがクリエイターたちが集まったクラブ。デザインセンスが違う。

手前の縞ジャージは明治のキャプテン、プロップ高田司か。
一番右は早稲田の3年石塚武生。
4年でキャプテン。後にリコー。
小柄なフランカーの代名詞。170㎝だったか。
この翌年来日したウェールズにぼろ負けした中で、ウェールズのウィング、100m10秒6のウェールズ記録を持つJ.J.ウィリアムスが独走態勢に入るが、フランカーのバックアップコースを忠実に「カニ走り」して猛タックルで止めたシーンは今も目に焼き付いている。

宿沢のパスを受けるFB植山信幸。早稲田の4年。日本で初めてプレースキックにインステップキックを持ち込んだ。ハーフウェイからのゴールは時にスクリューキックとなりゴールに吸い込まれ、観衆の度肝を抜いた。
インステップキックを見慣れていない我々はそういうものかと思ったものだが、これ以降あんなボールの回転は見たことがない。
宿沢のパスにも注目。
現在はショートパス以外は基本スクリューだが当時はボールを無回転で相手に届けるのが「正しいパス」とされた時代。入部するとまずこのパスができるようになるまで練習した。
ただこのころからぼちぼちスクリューパスが導入され、ビッグゲームでボールボーイがスクリューパスでボールを返却したりすると会場がどよめいたものだ。
写真ではSHは宿沢しか見当たらないが別の日には今里(近鉄)と松尾雄治(明治→釜石)の姿もあった。
あの松尾は当時SHだったのだ。スタンドオフになったのは釜石入ってからか。(追記。この時松尾2年。翌年にSO転向との有力情報がありました。)
SHとしての松尾は当時から「天才」とは言われたものの必ずしも評価は高くなかったと思う。なにしろ今里・宿沢のような従来のSHのイメージとは違いすぎた。
当時のSHはとにかくよく飛んだ。現在のように密集(ブレイクダウンなんて言葉は当時なかった。)周辺のSHがルールで守られていなかったというのもあるし、スクリューパスがなかった時代、小柄なハーフが「伸びのあるパス」を投げようと思えば飛ぶしかなかったというのも理由だろう。また「飛ぶ」という気合の入ったプレイで見方を鼓舞するという意味もあったかもしれない。
そんな時代、松尾はほとんど飛ばなかった。すでにスクリューパスをマスターしていたし、何より判断力と読みが売り物だった松尾にとって「飛べば次の動きが遅れる」ぐらいの気持ちだったのだと思う。(宿沢も判断力と読みが売りではあったが。)
そんな松尾だが、ここでのパスの反復練習中、誰かに「飛べ!」と声をかけられて最後の一本だけいやいや飛んでいたのを覚えている。
少なくとも当時の日本では彼の「天才」を生かすにはスタンドオフへの転向は大正解だった。

手前、宿沢の隣は有賀健(日体大)。サントリーの有賀剛の父親。日本のスポーツ界では珍しい「父子二代の名選手」。
ちなみに有賀健の日川高校の同級生にはプロレスのジャンボ鶴田、サッカー日本代表の清雲がいたという。

中央が藤原優。日川高校時代に代表に呼ばれる。174㎝(?)70㎏代の体格は当時のバックスとしては「巨体」だった。ウィングとセンターをこなす。
当時来日する外国チームにぼろ負けしていても、最後には藤原が1トライは決めて、ファンの留飲を下げさせてくれたものだ。
現在は絶対にありえないことだが当時は例えばケンブリッジ大が来日しても最終戦は「全日本」が対戦していた。国代表が他国を訪れた場合、現地の単独チームと対戦することはあるが、単独チームが他国を訪れて国代表と対戦するなど世界の常識外、だった。当時日本はそんなレベルだったという事だ。実力的にも国際常識的にも。
藤原の左は法政出のセンター吉田か。当時センターの12・13は現在の「インサイド・アウトサイド」ではなく「左・右」だった。「インサイドセンター」の概念を導入し、自ら実践したのは後の平尾誠二だと思う。
藤原の右、赤いジャージはリコーのフランカー6番井沢か。
フランカーの「6,7番」も現在のような「ブラインド、オープン」ではなく「左、右」だった。この時代の7番と言えばあの山口良治。後のスクールウォーズである。当時は京都市役所。代表のゴールキッカーも務めていた。このころはトウキック。この合宿では見かけなかったような。

左から、藤原、センター森重隆(明治→新日鉄釜石)現ラグビー協会会長、石塚。
森はまだヒゲを生やしていないか。170㎝に満たない、60㎏代は当時としては極端に小柄なわけではなかった。ただ外国に行くとセンターと言っても信じてもらえなかったとか。
彼をしのぐキレキレのステップと瞬時のスピードは未だ見たことがない。あ、福岡が匹敵するか。タイプは違うが。
(う〜ん。これ森じゃないかも。森にしては大きい気もする。果たして森に「ヒゲなし時代」があったのか、とも)

左は早稲田のスタンドオフ中村康司。宿沢と同期。
この日の写真にはないが、この時代のスタンドオフと言えば井口と蒲原。
蒲原は早稲田卒業後チームには所属せず「天理教本部」勤務だった。そんな形で代表を続けていた。
当時は選手交代は「負傷の時レフェリーが認めたときのみ2名まで」だったので、中村、代表での出番はほぼなかったと思う。

これも中村と植山。

この合宿最年少の藤原。ボールのかたずけは彼一人の仕事だったかも。もちろん革製紐編みボール。
この写真にはフッカーが一人も登場しない。時代的には大東和美(早大出)がいたはず。ただ彼もスタンドオフ蒲原、宿沢らと同様、卒業後はチームに所属しなかった。それでいて3人とも代表選出。まあのどかな時代ではある。3人とも早稲田。
大東は後にJリーグチェアマンになる。
この後、秩父宮の改修は無事終了するが、この間空前の「大学ラグビーブーム」となる。
国立競技場の早明戦は観衆6万を超え東京オリンピック以来の満員を記録する。当日現場の観客席にいた私はバックスタンドの聖火台の下、ゴール裏まで人で埋まるのを友人たちと呆然と見つめていた。いったい何が起こったのだ、って。
このため、秩父宮完成後も大学の人気カードはしばらく国立競技場でおこなわれることになる。
岸体育館内のラグビー協会で手に入った「学生部員券50円」も廃止された。
秩父宮ラグビー場はこの前年よりスタンドの改修工事が始まっていた。だが解体は終了したものの、翌年以降「予算が付かなかった」とかで工事は中断。この事態は大学ラグビーの人気カードや日本選手権などが国立競技場で開催されるきっかけともなる。
「人気カード」以外は大学の練習グラウンドで公式戦が行われた。横浜の三ツ沢競技場も使われた。八幡山、東伏見、三ツ沢にはよく通ったものだ。当時私は受験生。何やってんだか。
一方、秩父宮はスタンドもフェンスも管理人もないまま放置されていた。
そんな中、当時高3だった私はしばしば授業をさぼって、ぶらりと秩父宮を訪れ、当時珍しかった芝のグラウンドを楽しんでいた。時に昼寝をし、時にボールを持ちこみゴールキックの練習などしていたものだ。
その日も秩父宮に入る。いつもと違い人の気配が。みんなジャージ姿だ。
ああどっかのチームが練習場として利用しているのだな。
と見ると、あ、あれは宿沢、あれは寺井、やや村田も横井もいる。植山、森、原、小笠原、石塚も。
「全日本の練習だ!」
もちろんスマホもカメラ付きガラケーもない時代。
翌日は小学生の時買ってもらった「オリンパスペン」を引っ提げてラグビー部の友人も誘って再訪。
いやまてよ、その日のうちに家にオリンパスペン取りに行った気もする。う~ん、思い出せない。
(注・当時は他の競技も含め、「日本代表」とは言わず「全日本」とよんでいた。)
この記事ではこの時の写真13枚を45年目にして初公開。合わせて当時の日本代表を振り返ってみる。
ただし例によって全て現在の私の記憶に基づく。検索・事実確認など一切しないので間違い・思い違いもありうることをお断りしておく。(ただ名前の間違いは失礼にあたるので伊藤忠ユキ氏・石塚武オ氏については確認の上それぞれ、忠幸氏、武生氏と記した)
登場する選手達は当然すでに現役を引退し、他界された方もいる。もちろん私よりも「先輩」であり、お名前には「敬称」をつけるのが礼儀と言うものだろう。だがここではあえて当時の私のあこがれと敬意をこめて「呼び捨て」とさせていただく。
この時期、翌年にウェールズ来日を控えての合宿だったのではないか。皆、神宮球場方面から歩いて秩父宮に来ていた。日本青年館あたりが宿舎だったか。
この日、コーチ・監督などはいなかった。選手たちの自主練習だったか。
いやこの合宿、その後も何日か行ったが監督コーチは見た覚えがない。当時は専従監督もいない時代。夜のミーティングと日曜ぐらいしか出なかったのだろうか。当時の監督が誰だったかも思い出せない。日比野弘氏あたりかな。
メディアの姿も一度もみなかった。

前から坂田(近鉄)、伊藤忠幸(リコー)、そしてキャプテン横井章(三菱自工京都)。
(2番目はもしかして違うかも)
これFWの練習。仮想ラックに突っ込む。これ私らもやっていたが、今思えば実戦には結びつかない練習。現在は絶滅した練習だろう。
だがバックス3人の重鎮が楽しそうにかつ真剣に取り組む姿勢がうれしい。
下の写真がこの後の図。メンバーは違うが。

左から原進(近鉄)ひとりおいて寺井(新日鉄八幡)小笠原(近鉄)。FWの重鎮3人。
原は後のプロレスラー「阿修羅・原」リングネームの名付け親は作家野坂昭如氏。当時中年すぎてラグビーを始めて話題になっていた。原は1・3をこなすプロップ。体重は80㎏そこそこだが、当時の日本のプロップは皆そんなものだった。プロレスラーになり100㎏を越えた原は「この増量ノウハウをラグビー界に伝えたい」と語っている。どこかの世界選抜に日本人として唯一№8として出場した。原が着ているのはフランスの代表ユニフォーム。前年の英仏遠征でのフランス戦でジャージ交換したものだろう。
寺井は日本ラグビー界待望の190㎝越えのロック。ただし寺井引退後は190㎝代のFWはしばらく途絶える。
小笠原もロック184㎝。これでも当時大きい方だった。大学ラグビーなどでは170㎝代のロックも珍しくなかった時代。当然豪快なプレイが持ち味だったが、2・3人吹き飛ばした後、周りを見てパスコースを探すような「余裕の技巧派」でもあった。引退後は母校弘前実業でラグビーを教えていた。ただし本人がラグビーを始めたのは高卒後の自衛隊だったような。(元祖福坪?)
ロックでは、この日はいなかったが、当時リーグ戦2部だった東海大の袋舘龍太郎がいた。スロワーの石塚と二人で来てラインアウトの練習を繰り返していた。

№8村田義弘(リコー)
寺井に次ぐ長身185㎝。ただし今から見るとかなり細身だった。
日本選手権でのトライ後のガッツポーズは当時のラグビー界では異例だった。あんまりかっこよくて同じ№8だった私はトライ後そのポーズを真似したものだ。
ちなみに写真の右側は私。
№8といえば当時東洋大に佐藤肇という選手がいた。デカい体でランもキックもパスもこなし、決して強豪ではなかった東洋大を、攻守とも一人で牽引していた。ペナルティ時のタッチキックなども彼が蹴っていた。ゴールキックも蹴っていた気もするがこれは確かではない。
とにかく大学生の中に一人Nコムのブリッツあたりがいる感じ。異次元の存在だった。これは将来の日本代表の主力を担う才能だ、と思ったものだ。学生代表にも早慶明選手ばかりの中で一人選ばれていた。
だがその後の活躍を私は知らない。
「消えた天才」か。

左からロック柴田(東京サンヨー)、小笠原、ウィング金指(早稲田)、原、プロップ黒坂。
うーん、金指と黒坂は自信がない。(追記・黒坂はフッカーとの有力情報がありました)
柴田も184㎝ぐらいだったと思う。
背景はメインスタンド側だが、ただの土手。改修中はこんなだった。

言わずと知れた宿沢広朗と寺井。
一番の長身と短身二人を呼びつけてポーズを取ってもらった。
今思うと冷や汗モノ。
宿沢はこの時大学卒業後かな。
早稲田卒業後はチームには属さず銀行マンに。たぶんこのウェールズ来日ぐらいでプレイヤーとしては引退したのではないか。後に代表監督。
この黒地に白のアニメジャージは野坂昭如氏主宰のアドリブクラブのユニフォーム。さすがクリエイターたちが集まったクラブ。デザインセンスが違う。

手前の縞ジャージは明治のキャプテン、プロップ高田司か。
一番右は早稲田の3年石塚武生。
4年でキャプテン。後にリコー。
小柄なフランカーの代名詞。170㎝だったか。
この翌年来日したウェールズにぼろ負けした中で、ウェールズのウィング、100m10秒6のウェールズ記録を持つJ.J.ウィリアムスが独走態勢に入るが、フランカーのバックアップコースを忠実に「カニ走り」して猛タックルで止めたシーンは今も目に焼き付いている。

宿沢のパスを受けるFB植山信幸。早稲田の4年。日本で初めてプレースキックにインステップキックを持ち込んだ。ハーフウェイからのゴールは時にスクリューキックとなりゴールに吸い込まれ、観衆の度肝を抜いた。
インステップキックを見慣れていない我々はそういうものかと思ったものだが、これ以降あんなボールの回転は見たことがない。
宿沢のパスにも注目。
現在はショートパス以外は基本スクリューだが当時はボールを無回転で相手に届けるのが「正しいパス」とされた時代。入部するとまずこのパスができるようになるまで練習した。
ただこのころからぼちぼちスクリューパスが導入され、ビッグゲームでボールボーイがスクリューパスでボールを返却したりすると会場がどよめいたものだ。
写真ではSHは宿沢しか見当たらないが別の日には今里(近鉄)と松尾雄治(明治→釜石)の姿もあった。
あの松尾は当時SHだったのだ。スタンドオフになったのは釜石入ってからか。(追記。この時松尾2年。翌年にSO転向との有力情報がありました。)
SHとしての松尾は当時から「天才」とは言われたものの必ずしも評価は高くなかったと思う。なにしろ今里・宿沢のような従来のSHのイメージとは違いすぎた。
当時のSHはとにかくよく飛んだ。現在のように密集(ブレイクダウンなんて言葉は当時なかった。)周辺のSHがルールで守られていなかったというのもあるし、スクリューパスがなかった時代、小柄なハーフが「伸びのあるパス」を投げようと思えば飛ぶしかなかったというのも理由だろう。また「飛ぶ」という気合の入ったプレイで見方を鼓舞するという意味もあったかもしれない。
そんな時代、松尾はほとんど飛ばなかった。すでにスクリューパスをマスターしていたし、何より判断力と読みが売り物だった松尾にとって「飛べば次の動きが遅れる」ぐらいの気持ちだったのだと思う。(宿沢も判断力と読みが売りではあったが。)
そんな松尾だが、ここでのパスの反復練習中、誰かに「飛べ!」と声をかけられて最後の一本だけいやいや飛んでいたのを覚えている。
少なくとも当時の日本では彼の「天才」を生かすにはスタンドオフへの転向は大正解だった。

手前、宿沢の隣は有賀健(日体大)。サントリーの有賀剛の父親。日本のスポーツ界では珍しい「父子二代の名選手」。
ちなみに有賀健の日川高校の同級生にはプロレスのジャンボ鶴田、サッカー日本代表の清雲がいたという。

中央が藤原優。日川高校時代に代表に呼ばれる。174㎝(?)70㎏代の体格は当時のバックスとしては「巨体」だった。ウィングとセンターをこなす。
当時来日する外国チームにぼろ負けしていても、最後には藤原が1トライは決めて、ファンの留飲を下げさせてくれたものだ。
現在は絶対にありえないことだが当時は例えばケンブリッジ大が来日しても最終戦は「全日本」が対戦していた。国代表が他国を訪れた場合、現地の単独チームと対戦することはあるが、単独チームが他国を訪れて国代表と対戦するなど世界の常識外、だった。当時日本はそんなレベルだったという事だ。実力的にも国際常識的にも。
藤原の左は法政出のセンター吉田か。当時センターの12・13は現在の「インサイド・アウトサイド」ではなく「左・右」だった。「インサイドセンター」の概念を導入し、自ら実践したのは後の平尾誠二だと思う。
藤原の右、赤いジャージはリコーのフランカー6番井沢か。
フランカーの「6,7番」も現在のような「ブラインド、オープン」ではなく「左、右」だった。この時代の7番と言えばあの山口良治。後のスクールウォーズである。当時は京都市役所。代表のゴールキッカーも務めていた。このころはトウキック。この合宿では見かけなかったような。

左から、藤原、センター森重隆(明治→新日鉄釜石)現ラグビー協会会長、石塚。
森はまだヒゲを生やしていないか。170㎝に満たない、60㎏代は当時としては極端に小柄なわけではなかった。ただ外国に行くとセンターと言っても信じてもらえなかったとか。
彼をしのぐキレキレのステップと瞬時のスピードは未だ見たことがない。あ、福岡が匹敵するか。タイプは違うが。
(う〜ん。これ森じゃないかも。森にしては大きい気もする。果たして森に「ヒゲなし時代」があったのか、とも)

左は早稲田のスタンドオフ中村康司。宿沢と同期。
この日の写真にはないが、この時代のスタンドオフと言えば井口と蒲原。
蒲原は早稲田卒業後チームには所属せず「天理教本部」勤務だった。そんな形で代表を続けていた。
当時は選手交代は「負傷の時レフェリーが認めたときのみ2名まで」だったので、中村、代表での出番はほぼなかったと思う。

これも中村と植山。

この合宿最年少の藤原。ボールのかたずけは彼一人の仕事だったかも。もちろん革製紐編みボール。
この写真にはフッカーが一人も登場しない。時代的には大東和美(早大出)がいたはず。ただ彼もスタンドオフ蒲原、宿沢らと同様、卒業後はチームに所属しなかった。それでいて3人とも代表選出。まあのどかな時代ではある。3人とも早稲田。
大東は後にJリーグチェアマンになる。
この後、秩父宮の改修は無事終了するが、この間空前の「大学ラグビーブーム」となる。
国立競技場の早明戦は観衆6万を超え東京オリンピック以来の満員を記録する。当日現場の観客席にいた私はバックスタンドの聖火台の下、ゴール裏まで人で埋まるのを友人たちと呆然と見つめていた。いったい何が起こったのだ、って。
このため、秩父宮完成後も大学の人気カードはしばらく国立競技場でおこなわれることになる。
岸体育館内のラグビー協会で手に入った「学生部員券50円」も廃止された。