おとぶろラグビー夜話

ラグビーに関するあれやこれや。

タグ:ペナルティ

ペナルティ相当の反則をしてしまった側にとって、アドバンテージの時間はつらい。
タックルして、タックルして、タックルしまくって相手のミスをさそっても、あるいはボールを奪取してもやっとふりだし。
相手ボールのペナルティキックで再開。つまりは「ピンチの再開」。
だが反則された側にも「悩み」がないわけじゃない。
レフェリーがアドバンテージをどこまで取るのか。だ。
攻撃側にとって、残り時間、点差、反則地点によって、状況は異なる。
「さあ、これで思い切った攻撃ができますね」とか、そう簡単な問題じゃない。
できるだけ長くプレイを続行して攻撃を続けたい場合ももちろんあるが、さっさと「ノーアドバンテージ」としてペナルティキック再開をしたい場合もあるのだ。
さっさとペナルティゴール決めて3点取りたい。とか、さっさとロングタッチ蹴って敵陣で自ボールラインアウト再開したい、とか。
だがアドバンテージ判断はレフェリーの専権事項。ゲインメートルや攻撃時間、フェイズ回数などの規定があるわけじゃない。
その時点でアドバンテージがいつまで継続されるのか、チームの方針・戦略に関係なくレフェリーにおまかせするしか無い。
時に攻撃側がさっさとアドバンテージを消してPK再開したい場合、わざとノッコンしたりするのも見かけるがこれはゴクまれ。やっぱラグビー選手としてはわざとでもノッコンとかしたくないし。
で、「ノーアドバンテージ獲得」のためによく使われるのが「無茶なキックパス」。これでノーアドバンテージとなり、PK再開を「獲得」ってわけだ。
こんな「面倒な手続き」をふまないと、選手側としては「ノーアドバンテージ→さっさとPK再開への選択権」など当然無いものだ。
と思っていたが、これを覆す驚きのレフェリングを見た。
   🏉   🏉   🏉

リーグワン第4節〈トヨタヴェルブリッツvs埼玉ワイルドナイツ〉。レフェリーはあの古瀬健樹氏。
ころいんべて31分45秒、Wナイツ陣22m付近でWナイツ11番コロインベテ、古川にハイタックル。古瀬氏直ちに「ハイタックル」と「アドバンテージ」を宣する。
もちろん攻撃を続行するヴェルブリッツ。
この間古瀬氏「スティル・アドバンテージ」とか「まだありますよ」とかの声掛けを続ける。よく見る光景だ。
反則から1分。ヴェルブリッツは連続攻撃を7フェイズ仕掛け、一時は敵ゴール前10mに迫るがこの時点ではまた22mまで戻される。
陣地的には反則地点から前進なし、という局面。一般的にはレフェリーの判断で「ノーアドバンテージ」を宣してもいい場面だ。だがヴェルブリッツはボールを失ったわけではない。ノッコンなどのミスがあったわけでもない。まだ攻撃を継続したいのかもしれない。点差は17点。ぜひトライが欲しい場面ではある。
どうするレフェリー。
ふるせ8と、古瀬氏、この後の声掛けは、
「使いますか?」
えっ?!
「福田さん、どうします?まだいい?」
えええっ!!
「とる?OK?いいね?」
で、ぴ~~。
ええええええ~!!!
古瀬氏、ここでアドバンテージの継続について、なんと目の前にいるヴェルブリッツのSH福田に「相談」して「了承」を求めたのだ。
こんなのは初めて見た。
だがこれは選手としてはありがたい。レフェリーのアドバンテージ判断に悩まされることもないし。
だがこれはルール的に、あるいはレフェリング運用的に「あり」なのか。
それとも古瀬氏個人の「英断」なのか。まさか古瀬氏20歳の「若気の至り」ってことはないだろな。
と、驚きとともにちょっともやもや感が残る私。
   🏉   🏉   🏉

と次節、アドバンテージを巡りまた驚きのレフェリングが。
〈相模原ダイナボアーズvs静岡ブルーレヴズ〉。
がーどなーレフェリーはアンガス・ガードナー氏(オーストラリア)。
65分、相模原陣10mライン超え付近のラックで相模原「ノットロールアウェイ」の反則。ガードナー氏「アドバンテージ」を宣し、静岡側の手を横に挙げる。
と、ここでラックのボールをキープした静岡SHブリン・ホール、ガードナー氏に何か話しかける。そしてうなずく。
と、ガードナー氏直ちに長い笛を吹きその場で「ペナルティ」。
なんとアドバンテージ時間はほぼゼロ。
えええっ!!これもありなのか。
前節の古瀬氏のようにレフェリーから選手に「ノーアドバンテージ」の意向を訊くのではなく、選手から「ノーアドバンテージで即PK再開」の意向を表明する。レフェリーがこれを聞き入れる。
へええ~~。
知らなかった。レフェリングの指針は日々進歩しているのだなあ。
ガードナー氏といえばW杯日本大会でも主審を努めたまさに「世界基準」のレフェリー。
てことは今やこれが「アドバンテージ判断の世界基準」と考えるべきなのだろう。そしてブリン・ホールもその世界基準を承知していた。
てことは前節の古瀬氏のレフェリングも明らかにこの世界基準に沿ったもの、ということなのだろう。
しかしこれはいい。この文の冒頭に書いたように反則した側された側双方に、そして見る側にも「無駄がない」。レフェリーにとってもヨケイな気を使う必要が無くなる。なんといっても「何がアドバンテージか」を判断できるのは攻撃を仕掛ける選手だもの。

   🏉   🏉   🏉
あ、そういえば花園の高校ラグビーの解説席で御所実業監督の竹田寛行氏がぼやいていたっけ。
「あまり長いアドバンテージは、特に1日おきに試合する花園では取ってほしくないんです。体力の消耗激しいですから」
なるほど。だがこんな悩みもこのレフェリングのように「攻撃側選手がアドバンテージ時間、打ち切り時を決定できる」ならあっさり解消だ。
いわばこのレフェリング、だれにとっても「良いことづくめ」。
もっと広く一般的に普及してほしいものだ、と思う。
   
さいとうせきや2と思ったら、5節の花園ライナーズ・東京サンゴリアス戦。
前半39分、ライナーズ反則、アドバンテージの中、ラックでボールをキープしたサンゴリアスSH斎藤が関谷レフェリーと手振りを交えて目配せ、関谷氏直ちに笛を吹きアドバンテージを終わらせPK再開を告げる。
なるほど。アドバンテージを巡るレフェリーと選手のコミュニケーション、既にじわりと広がっているようだ。

毎年少しずつルールが変わるラグビー。

ここでは約半世紀さかのぼって47年前。私が高校1年でラグビーを始めたころのルールを振り返ってみる。
時に昭和47年(1972年)。実はこの翌年は現行ルールにつながる多くのルール改正が行われ、ルール改変の歴史でも大きな節目だった。したがってその前年のルールは今から振り返るとなかなかすごいものもある。

ルールの変遷を知ることは「ラグビーとは何であるのか」を考える一助となるだろう。

ただし資料を当たるのではない。あくまで私の記憶をさかのぼる。

少なくとも高3当時は「競技規則」全てを頭に叩き込んでいた自信はあるが、さすがに45年たって、どれだけ正確かは正直なところ判らない。間違い・思い違いがあれば、指摘して頂きたいと思う。
一方現行のルールについてはラグビーファンとして最低限の常識は身に着けているが、高3当時のような「競技規則全てを頭に叩き込んでいた」ような状態ではない。したがってここでも間違い・思い違いは充分起こりえることもあらかじめ断っておきたい。

ともあれこの稿は、以前に投稿した「当時の日本代表を振り返る」と同様、私の記憶力テストでもある。菅平
















昭和47年の菅平
真夏の土煙が舞う。
このころ芝のグラウンドなど一面もなかったと思う。もちろん人工芝などない時代。






1.グラウンド

単位は現在のような「メートル」ではなかった。「ヤード」。

22mラインは25ヤードライン。

10mラインは10ヤードライン。もちろんペナルティ時の後退義務も10ヤード。
味方ペナルティ時の、FWリーダーKさんの「10ヤーズバーック!!」の声が今も耳に残っている。

15mラインはなかった。

したがってラインアウトはどれだけ長くても良かった。もちろん実際には反対側のタッチに届くほどの列を作ることなどなかったが。
ラインアウトでの反則再開ポイントは反則地点。

ゴール前の5mラインも無かった。よってゴール前のノッコンやスローフォワードなどのポイントはその行為の発生地点。発生地点がインゴールの場合は再開ポイントはゴールライン上だったと思う。ただしスクラム時は、ゴールライン側チームののフロントロウの足はゴールラインより前に置く。つまりゴールライン上でノッコン等あってもポイントはその地点ではなく、ハーフウェイ寄りにずらすという事。
ゴール前のタッチでは再開ポイントはゴールラインぎりぎりってこともあった。
ペナルティ時はどうだったのか。5mラインが無いのだから他の場合と同様。反則の発生地点からだとも思うが、ゴールラインぎりぎり上からのスタートってのは無理がある。うーん、思い出せない。「仮想の5メートル地点」とかの規定だったのだろうか。


「ヤード」が「「メートル」に変わったのは高2の時だったと思う。

15mラインとゴールからの5mラインが設けられたのも同時期、か、その1年後くらいだと思う。
これができた時は、タテヨコ2本ずつラインが増えて「ラグビー場が碁盤の目のようになった」などと思ったものだ。


聞いた話では以前は25ヤードラインもなく、しかも「ダイレクトタッチ」の概念もなく、攻撃側はタッチに蹴り出せばその分だけ前進でき、相手方はマイボールラインアウトからまたタッチ、という試合展開が多く、これではボールゲームとして面白くない、という事で、25ヤードラインと「ダイレクトタッチ」のルールが作られたという。

現在ではキックの地点が22メートル内であっても「味方が22m内に持ち込んだ場合」はダイレクトタッチとされるが、このころは見方が持ち込んだ場合でも良かった。 時にボール保持者が自分で22m内に持ち込んでタッチキックを蹴ることもあり、これを「余裕のプレイ」と見るか「消極的プレイ」と見るかは意見が分かれたと思う。


2.スクラム

現在のようなレフェリーのコールはなく、互いが呼吸を合わせて組んでいた。相撲の立ち合いと同じである。レフェリーも行司と同じ。上手く息があって組み合えば自然にゲームが再開される。

組む前にプロップが互いの肩に手をかけることも義務付けられていなかったと思う。ただし手の届く範囲からは組み合っていた。

これも聞いた話だが、以前はその規定もなく、スクラム時は数メートル離れたところから互いに突進して組んでいた時代もあったという。

組んだ後のプロップの手の位置は現在のように対面に掛けることが義務付けられてはおらず、特に1番の場合、左手を自分の膝に置いて安定姿勢を取る事が多かったと思う。

このような大雑把なものだったので当然スクラムの反則を取ることはほとんど無く、スクラムが崩れば何度でも組み直していた。

スクラムの人数も規定はなく、フロントロウ3人だけで組むのもアリ。
スクラムを回すのもアリ。スクラムが弱いチームはとにかく回してその場をしのぐのも作戦の一つだった。
攻撃側が回して№8が左にサイドアタックって作戦もあった。

SHによるボールインのタイミングは自由で、スクラムが弱いチームの場合、組んだ瞬間にボールを入れてフッカーはダイレクトで出し即バックスに展開、といった作戦が取られた。

ただしノットストレートは現在より厳密で特にスクラムが弱いチームの場合。1試合にいくつかは反則を取られたものだ。スクラムのノットストレートには「カンニングボール」なんて俗称もあった。
ノットストレートが厳密である分、相手方フッカーのフッキングの力量で相手ボールを
奪うことも可能だった。
したがってフッカーは自ボールを確実に確保する技術、相手ボールを奪う技術の向上に日々努めていたものだった。

スクラムのオフサイドラインは現在のような5m後方ではなく最後尾のライン。

スクラム












昭和47年のスクラム
1番I君の手が自分の膝にある




3.ラインアウト

前後左右とも間隔距離の規定は無し。敵味方グシャッと並んでボールを取り合っていた。で、「ラインアウトは反則の巣窟」などと言われていた。
(いやまてよ、なんか2フィートって数字が頭に残っている。相手との間隔、2フィートって規定だったかも)
その後、高2の時に前後の間隔が規制されたように思う。

リフトアップは反則。当時あるOBが「エレベーター」という「裏技」を教えてくれて、試合で使ったがスグにバレてペナルティ取られた覚えがある。その当時わが校には185㎝の長身ロックNさんがいた。たぶん当時の高校生では全国でも最長身クラスだった。大学・社会人でも185を超える人はそうはいなかった時代。
そのNさんを「エレベーター」すれば、そりゃバレるはなあ。

ラインアウトのオフサイドラインも味方の最後尾だったか。

10m後方になったのも高2の時。

人数をボール投入側に合わせなくても良かったが「長さ」はボール投入側より長いと反則。


4。モール、ラック

アンプレイアブル時は常に直前のボール保持側のボールでスクラム再開。この規定はその後たびたび変更が繰り返され、現在に至る。
モール時のレフェリーのコール、「ワンストップ」とか「ユーズイット」などはなかった。モール・ラックはどうにもならなくなるまで続行された。
コラプシングの反則もなかった。私など、モールが押されるとモール事タックルして崩していたものだ。
あぶないなあ、今考えると。

5.フリーキック

当時はフェアキャッチ後以外は「フリーキック」は無かった。現在のような「軽い反則に対するフリーキック」は無かったという事ですね。 フリーキック時、相手方は10m下がらなくてよく、マークのポイントまで出ることができた。しかもキッカーがモーションに入ればチャージに出てよく、したがってフリーキック側はチャージされないためにはマークより数メートル以上下がってキックをした。
しかもフリーキックはマークポイントを越えなければならず、現在のようにタップキックからスタートというのはできなかった。

フェアキャッチができるのは現行の「22メートルライン内」ではなく「自陣」であったような。
どっちにしろ、フェアキャッチなどめったにするものではなく、特に高校生などがしようものなら、みんなあっけにとられたような反応だった時代。
現在フェアキャッチはキッキックオフのボールに対してはできないが当時は可能。このころではないが後にキックオフからのフェアキャッチが流行ったことがあった。
〈追記〉
フェアキャッチ時の規定について貴重なご指摘を頂きました。
そうでしたそうでした。以下追記です。
「マーク」のコールは静止してかつ片足でマークポイントを明示しなければフェアキャッチは認められなかった。
その後「両足をついて静止」でよくなり、さらに走りながらでも、さらにはジャンプして空中でも認められるようになり現在に至る。
また「マーク」の声が審判に聞こえなかった時のためだろう、キャッチ後腕を「カギ型」に曲げてマークの意志を表示することも規定された。
マーク

 























.反則

基本的に「危険な行為」は現在と変わらないが、その適用は現在より甘く、よほどの事がない限りこのペナルティはなかったように思う。

キック時のレイトチャージも現在のように「ボールの落ちた地点から(オプション)ペナルティキックで再開」ではなく、その地点での再開だった。その後「ボールが落ちた地点でスクラム再開」とのオプションとなり現行ルールへと至る。

シンビンはなかったしレフェリーはイエローとレッドのカードも持っていなかった。。ひどい反則にはレフェリーの判断で警告と退場が宣せられた。


.ペナルティキック

ペナルティからのタッチキックの場合、現在のようにマイボールからのラインアウト再開ではなく、通常のタッチキック同様、相手ボールのラインアウトで再開。

したがって現在のように「ペナルティからタッチに出して再開」という選択は自陣25ヤード内からの脱出、という時ぐらいで、大抵はハイパントか、タップキックからの展開あるいはFWの突進などのサインプレイで再開していた。


.インゴール

現在のように「タッチインゴールやデッドボールラインを越えて攻撃側がボールを蹴り出したときは蹴った地点から防御側ボールでスクラム再開」ではなかった。25ヤードラインからドロップアウト。キックオフ時も同様。

したがってロングキッカーがいるチームはキックオフ時や通常のインプレイ時、ハーフウェイ前後から力任せにボールをデッドボールにケリ出せばドロップアウトで再開、相手陣でマイボールで攻撃というのが流行った。これでは試合がつまらなくなると現行ルールが考案されたのはだいぶ後。


.選手交代

選手交代は原則無し。怪我などでやむを得ないとレフェリーが判断し許可した時のみ2名まで交代が認められた。さらにさかのぼれば交代は一切なし、だったという。


10.レフェリー

現在の「アシスタントレフェリー」はあらゆるジャッジを補佐する。

が、当時の「タッチジャッジ」は、タッチとゴールキックの判定を補助するだけだった。

したがって公式戦でも両チームの関係者がこれを務める事が認められていた。

高校生などのチームでは補欠選手がタッチジャッジを務めることが多く、ひどいチームになるとルールもろくに知らない1年生にやらせることもあって、ダイレクトタッチも知らなかったり、どちらの手を上げるかを知らないなんてこともあった。

いやもちろん私の高校ではそういう事はありませんでしたが。WIN_20180916_17_11_31_Pro


昭和50年ころのスパイク
SUZUKI製
(撮影は最近)









11.得点

トライは4点。
ペナルティゴール3点、ドロップゴール3点、トライ後のゴール2点は今と同じ。
ただし当時は「トライ後のゴール」が決まった場合、トライを合わせた得点がキッカーの得点としてカウントされた。
例えば藤原がトライすれば藤原が4点を稼いだことになる。だがその後のコンバージョンを植山が成功させれば個人記録は植山6点で藤原の個人得点は消える。 この頃日本代表のニュージーランド遠征があったが、通算個人記録は当然植山がダントツだった。
トライの得点、以前は全て3点だったと聞いたことがある。
さらにさかのぼればトライは得点にならなかったとか。つまりトライはゴールを狙う「試み」を得る権利が与えられたという事。だから「トライ」。
つまり原始ラグビーにおいてはラグビーは「ゴール数を競う競技だった」という事。 だからすべてのゴール得点は1。当時の試合では例えば8−0の試合は「大差」だった。
その後トライ「にも」得点が認められ、3点さらに4点、5点とトライの比重が高まり基本「トライを競う競技」になったことがわかる。
現在はトライ6点案が、さらに「自陣22mライン以内からの連続攻撃によるトライは8点」案も検討されているという。

12.キックオフとキックティー
当時はキックティーなんてものはなく、ゴールキックを狙う時は、ボールを立てるためグラウンドに穴を掘るか土を盛るかしていた。芝のグラウンドなどめったになかったが、「土を盛る」派のキッカーは、芝では外から土を持参するしかなかった。
試合開始とハーフタイム明けのキックオフもプレースキック。
私もキッカーをやることがあったが、ボールを立てる私のやり方は「スパイクのかかとを地面につけてここを軸にくるりと回転して穴をあける」、というものだった。が、これを続けるとスパイクのかかとが1方向にゆがみ右スパイクだけがすぐにダメになることがわかってやめた。以後は「土を盛る」派。

試合開始とハーフタイム明けのキックオフもプレースキック。

トライの後のキックオフは、相手のコンバージョンが決まった後はプレースキック、外れた時はドロップキックで再開。今考えるとこれはずいぶん面倒で意味不明なルールだった。

いや、軽い気持ちで書き出したら長くなってしまった。ずいぶん変わったものだ。まいったまいった。

ただこうして約半世紀前のルールを振り返ると、改めてラグビーがどこから来てどこに向かうのかが見えてきますね。
パント


おまけ

ムカシのアルバムをあさってたらこんなのも貼ってあった。
昭和48年のイラスト
「昭和48年のショートパント」(笑)




あ。この絵を見て思い出した。当時は高校生もヘッドキャップなしでOK.。
スクラムのプッシュも1mまでの制限はなかった。全て大人のルールと同じ。
ボールだけ違って、小さめの「6面ボール」。

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