おとぶろラグビー夜話

ラグビーに関するあれやこれや。

2019年02月

 ラグビーボール セプターしばらくボーッと生きてたら、いつの間にラグビーボールの編み目がなくなり、材質も合成樹脂に変わっていた。
だが今も「記号」や「オブジェ」としてのラグビーボールには、「編み目」があったりする。絵文字とか。
🏉
そもそもあの「編み目」って何なんだ。
少し前の「革製・編み目あり」のラグビ―ボールにはすでに空気入れ用のバルブ(我々はヘソと呼んでいた)が付いていた。バスケ・バレー・サッカーボールなんかと同じ作りですね。空気入れは簡単。この「へそ」に、「球技ボースクリーンショット 2020-03-28 15.34.27ル共用ピン」を差し込んでポンプを動かすだけ。
この時代すでに「編み目」はボールの機能としては不要なものになっていた訳だ。いやラインアウトで手の小さいスロワーはこの編み目を滑り止めにして投入していたりしたが。
ともかくその後「編み目」は消滅して現在に至る。


さて昭和47年。私が高1でラグビーを始めたころは、ラグビーボールには「へそ」が無かった。そしてあの「編み目」にも意味があったのだ。
「ヘソボール」が現れたのは私が高1の途中頃。当時ボール管理は1年生部員が1個づつ担当していて、手間のかからないヘソボール担当第1号になったT君は羨ましかったなあ。いや、T君はボール管理が一番きれいだったからその「ご褒美」としてヘソボールを与えられたんだっけ。
その後順次「ヘソボール」への入れ替えが進み、私が3年の頃、部所有のすべてのボールが「ヘソボール」になったと思う。つまり私と1年下の世代までが「ヘソなし原始ラグビーボール」を知る最後の世代という事になる。

ここでは「原始ラグビーボール」とその「取り扱い」について記す。
昔のラグビーボール、検索してみたが見当たらない。(ちゃんと探せばどこかにはあるのかも知れないが、私の検索力と根気では見つからないという事。)
記録を残しておかねば、このままでは歴史的事実としても忘れ去られてしまう。もちろん画像も見当たらない。自分で描くしかない。


ボールとチューブ3
①これがゴムチューブ。
 空気入れ部は本体とひとつながりのただのホース。
「ヘソ」というより「へその緒」か。

②チューブを革ボールに入れ、空気を入れる。
空気入れの先もただのパイプ。
ピンなどない。

③空気を入れたら、ホースを折り曲げ輪ゴムで縛る。


ニードル5



















④革ひもにたっぷりと保革油を塗る。革ひもの根元には切れ目がある。スタートはこの切れ目に先端を通す。
保革油の缶もデカかった。直径10㎝以上、高さもそのくらいあったのではないか。現在はそんな製品は無いようだ。
⑤「紐通し穴の裏側には「裏地革」がある。革紐やニードルでゴムチューブを傷つけないためのカバー。図の中心右側の縫い目はこのカバーを縫い付けたもの。
「ヘソの緒」をそのカバーの下側に押し込み、ニードルで編んでゆく。この時点で空気はパンパンに入っているわけだから、編み作業は当然力と技術を要する。綺麗に仕上げるヤツとそうでもないヤツの力量の差が出る。
「ニードル」は直径5mm長さ25㎝ほどの金属針。もちろんラグビーボール専用。

ブタボール3
⑥編み終わり残った紐はタテ線に押し込んで出来上がり。この作業もニードルを使う。


この空気入れ作業はボール購入時だけではない。
他の球技ボール同様、空気はゆるむ。その都度革ヒモをほどいてこの作業を繰り返すのである。
(練習後毎回この作業をしていたラグビー部もあったとか。
これは大変だ。)

⑦このころ高校生はやや小さめの「6面ボール」だった。
(いや、6面は中学生、高校は4面だった、との声もある。地域差があるのか時代が違うのかはは今のところ、不明)
革の張り合わせはこんな感じ。
6枚の革を一点に集めるには縫い代に無理があるのだろう。

⑧革ボールはすぐ伸びる。
それも均等に伸びてボールが大きくなるのではなく、横に膨らむ。で新品時②のようなボールはすぐにこんなふうになってしまう。我々はこれを「ブタボール」と呼んでいた。というか、私が「ブタボール」と命名した。
練習ボールはどれもこんなので、試合で新品ボールをおろすと細すぎて戸惑ったものだ。色もだんだんドス黒くなってくる。
なおボールの先端は②の形。現在ものより先がとがっていた。今は先がだいぶ丸くなった。


日々の手入れ。

土のグラウンドでボールを使えば当然汚れる。
手入れは唾(ツバ)か牛乳という事になっていた。
唾であれば直接ボールに吐き付け、牛乳はボールに塗り、指でごしごしこすり、まず「垢だし」をする。これをせずに磨くと表面がロウ状に滑りやすくなる。
「垢だし」が終わったら、再びツバか牛乳を塗りナイロンストッキングでピカピカに磨く。ラグビー部の1年生はみんな母親とかのパンティストッキングを教室に持ち込んでいた。
ところでこの「手入れ法」って全国共通なんだろうか。何人かから「同じ」との証言を得てはいるが


教室内で唾を吐き、女性ものパンティストッキングを持ち込むラグビー部員は一般常識からすればどう考えてもヘンタイである。うら若き女子たちの嫌悪のマトになって不思議はない。
ところが現実はそんなことはないんだな。
ユーミンの歌「ノーサイド」を解説したエッセイスト酒井順子氏の分析によれば、「ラグビー部員」は女子のあこがれだったという。「野球にはないお洒落感と知的な感じ、お坊ちゃんイメージ」があり、ラグビー部員の彼女になることは、野球部員の彼女よりは「格上」で女子社会のヒエラルキー上位に位置するとか。
ただしユーミンも酒井順子も
女子高育ち。なので高校ラグビー部の「ボール磨きの実態」は知らなかっただろうけど。
ちなみにユーミンのデビューも昭和47年。スクリーンショット 2020-03-28 16.24.49














画・kanekootow
©アトリエほっかむ許可済

昭和49年。
秩父宮ラグビー場はこの前年よりスタンドの改修工事が始まっていた。だが解体は終了したものの、翌年以降「予算が付かなかった」とかで工事は中断。この事態は大学ラグビーの人気カードや日本選手権などが国立競技場で開催されるきっかけともなる。
「人気カード」以外は大学の練習グラウンドで公式戦が行われた。横浜の三ツ沢競技場も使われた。八幡山、東伏見、三ツ沢にはよく通ったものだ。当時私は受験生。何やってんだか。


一方、秩父宮はスタンドもフェンスも管理人もないまま放置されていた。

そんな中、当時高3だった私はしばしば授業をさぼって、ぶらりと秩父宮を訪れ、当時珍しかった芝のグラウンドを楽しんでいた。時に昼寝をし、時にボールを持ちこみゴールキックの練習などしていたものだ。
その日も秩父宮に入る。いつもと違い人の気配が。みんなジャージ姿だ。
ああどっかのチームが練習場として利用しているのだな。
と見ると、あ、あれは宿沢、あれは寺井、やや村田も横井もいる。植山、森、原、小笠原、石塚も。
「全日本の練習だ!」
もちろんスマホもカメラ付きガラケーもない時代。
翌日は小学生の時買ってもらった「オリンパスペン」を引っ提げてラグビー部の友人も誘って再訪。
いやまてよ、その日のうちに家にオリンパスペン取りに行った気もする。う~ん、思い出せない。
(注・当時は他の競技も含め、「日本代表」とは言わず「全日本」とよんでいた。)

この記事ではこの時の写真13枚を45年目にして初公開。合わせて当時の日本代表を振り返ってみる。

ただし例によって全て現在の私の記憶に基づく。検索・事実確認など一切しないので間違い・思い違いもありうることをお断りしておく。(ただ名前の間違いは失礼にあたるので伊藤忠ユキ氏・石塚武オ氏については確認の上それぞれ、忠幸氏、武生氏と記した)
登場する選手達は当然すでに現役を引退し、他界された方もいる。もちろん私よりも「先輩」であり、お名前には「敬称」をつけるのが礼儀と言うものだろう。だがここではあえて当時の私のあこがれと敬意をこめて「呼び捨て」とさせていただく。

この時期、翌年にウェールズ来日を控えての合宿だったのではないか。皆、神宮球場方面から歩いて秩父宮に来ていた。日本青年館あたりが宿舎だったか。
この日、コーチ・監督などはいなかった。選手たちの自主練習だったか。
いやこの合宿、その後も何日か行ったが監督コーチは見た覚えがない。当時は専従監督もいない時代。夜のミーティングと日曜ぐらいしか出なかったのだろうか。当時の監督が誰だったかも思い出せない。日比野弘氏あたりかな。
メディアの姿も一度もみなかった。

秩父宮5














前から坂田(近鉄)、伊藤忠幸(リコー)、そしてキャプテン横井章(三菱自工京都)。
(2番目はもしかして違うかも)
これFWの練習。仮想ラックに突っ込む。これ私らもやっていたが、今思えば実戦には結びつかない練習。現在は絶滅した練習だろう。
だがバックス3人の重鎮が楽しそうにかつ真剣に取り組む姿勢がうれしい。
下の写真がこの後の図。メンバーは違うが。

秩父宮4












左から原進(近鉄)ひとりおいて寺井(新日鉄八幡)小笠原(近鉄)。FWの重鎮3人。
原は後のプロレスラー「阿修羅・原」リングネームの名付け親は作家野坂昭如氏。当時中年すぎてラグビーを始めて話題になっていた。原は1・3をこなすプロップ。体重は80㎏そこそこだが、当時の日本のプロップは皆そんなものだった。プロレスラーになり100㎏を越えた原は「この増量ノウハウをラグビー界に伝えたい」と語っている。どこかの世界選抜に日本人として唯一№8として出場した。原が着ているのはフランスの代表ユニフォーム。前年の英仏遠征でのフランス戦でジャージ交換したものだろう。
寺井は日本ラグビー界待望の190㎝越えのロック。ただし寺井引退後は190㎝代のFWはしばらく途絶える。
小笠原もロック184㎝。これでも当時大きい方だった。大学ラグビーなどでは170㎝代のロックも珍しくなかった時代。当然豪快なプレイが持ち味だったが、2・3人吹き飛ばした後、周りを見てパスコースを探すような「余裕の技巧派」でもあった。引退後は母校弘前実業でラグビーを教えていた。ただし本人がラグビーを始めたのは高卒後の自衛隊だったような。(元祖福坪?)
ロックでは、この日はいなかったが、当時リーグ戦2部だった東海大の袋舘龍太郎がいた。スロワーの石塚と二人で来てラインアウトの練習を繰り返していた。
秩父宮12
№8村田義弘(リコー)
寺井に次ぐ長身185㎝。ただし今から見るとかなり細身だった。
日本選手権でのトライ後のガッツポーズは当時のラグビー界では異例だった。あんまりかっこよくて同じ№8だった私はトライ後そのポーズを真似したものだ。
ちなみに写真の右側は私。

№8といえば当時東洋大に佐藤肇という選手がいた。デカい体でランもキックもパスもこなし、決して強豪ではなかった東洋大を、攻守とも一人で牽引していた。ペナルティ時のタッチキックなども彼が蹴っていた。ゴールキックも蹴っていた気もするがこれは確かではない。
とにかく大学生の中に一人Nコムのブリッツあたりがいる感じ。異次元の存在だった。これは将来の日本代表の主力を担う才能だ、と思ったものだ。学生代表にも早慶明選手ばかりの中で一人選ばれていた。
だがその後の活躍を私は知らない。
「消えた天才」か。
秩父宮7














左からロック柴田(東京サンヨー)、小笠原、ウィング金指(早稲田)、原、プロップ黒坂。
うーん、金指と黒坂は自信がない。(追記・黒坂はフッカーとの有力情報がありました)
柴田も184㎝ぐらいだったと思う。
背景はメインスタンド側だが、ただの土手。改修中はこんなだった。
秩父宮11
















言わずと知れた宿沢広朗と寺井。
一番の長身と短身二人を呼びつけてポーズを取ってもらった。
今思うと冷や汗モノ。
宿沢はこの時大学卒業後かな。
早稲田卒業後はチームには属さず銀行マンに。たぶんこのウェールズ来日ぐらいでプレイヤーとしては引退したのではないか。後に代表監督。
この黒地に白のアニメジャージは野坂昭如氏主宰のアドリブクラブのユニフォーム。さすがクリエイターたちが集まったクラブ。デザインセンスが違う。
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手前の縞ジャージは明治のキャプテン、プロップ高田司か。
一番右は早稲田の3年石塚武生。
4年でキャプテン。後にリコー。
小柄なフランカーの代名詞。170㎝だったか。
この翌年来日したウェールズにぼろ負けした中で、ウェールズのウィング、100m10秒6のウェールズ記録を持つJ.J.ウィリアムスが独走態勢に入るが、フランカーのバックアップコースを忠実に「カニ走り」して猛タックルで止めたシーンは今も目に焼き付いている。
秩父宮10













宿沢のパスを受けるFB植山信幸。早稲田の4年。日本で初めてプレースキックにインステップキックを持ち込んだ。ハーフウェイからのゴールは時にスクリューキックとなりゴールに吸い込まれ、観衆の度肝を抜いた。
インステップキックを見慣れていない我々はそういうものかと思ったものだが、これ以降あんなボールの回転は見たことがない。

宿沢のパスにも注目。
現在はショートパス以外は基本スクリューだが当時はボールを無回転で相手に届けるのが「正しいパス」とされた時代。入部するとまずこのパスができるようになるまで練習した。
ただこのころからぼちぼちスクリューパスが導入され、ビッグゲームでボールボーイがスクリューパスでボールを返却したりすると会場がどよめいたものだ。

写真ではSHは宿沢しか見当たらないが別の日には今里(近鉄)と松尾雄治(明治→釜石)の姿もあった。
あの松尾は当時SHだったのだ。スタンドオフになったのは釜石入ってからか。(追記。この時松尾2年。翌年にSO転向との有力情報がありました。)
SHとしての松尾は当時から「天才」とは言われたものの必ずしも評価は高くなかったと思う。なにしろ今里・宿沢のような従来のSHのイメージとは違いすぎた。
当時のSHはとにかくよく飛んだ。現在のように密集(ブレイクダウンなんて言葉は当時なかった。)周辺のSHがルールで守られていなかったというのもあるし、スクリューパスがなかった時代、小柄なハーフが「伸びのあるパス」を投げようと思えば飛ぶしかなかったというのも理由だろう。また「飛ぶ」という気合の入ったプレイで見方を鼓舞するという意味もあったかもしれない。
そんな時代、松尾はほとんど飛ばなかった。すでにスクリューパスをマスターしていたし、何より判断力と読みが売り物だった松尾にとって「飛べば次の動きが遅れる」ぐらいの気持ちだったのだと思う。(宿沢も判断力と読みが売りではあったが。)
そんな松尾だが、ここでのパスの反復練習中、誰かに「飛べ!」と声をかけられて最後の一本だけいやいや飛んでいたのを覚えている。
少なくとも当時の日本では彼の「天才」を生かすにはスタンドオフへの転向は大正解だった。

秩父宮6














手前、宿沢の隣は有賀健(日体大)。サントリーの有賀剛の父親。日本のスポーツ界では珍しい「父子二代の名選手」。
ちなみに有賀健の日川高校の同級生にはプロレスのジャンボ鶴田、サッカー日本代表の清雲がいたという。
秩父宮3














中央が藤原優。日川高校時代に代表に呼ばれる。174㎝(?)70㎏代の体格は当時のバックスとしては「巨体」だった。ウィングとセンターをこなす。
当時来日する外国チームにぼろ負けしていても、最後には藤原が1トライは決めて、ファンの留飲を下げさせてくれたものだ。
現在は絶対にありえないことだが当時は例えばケンブリッジ大が来日しても最終戦は「全日本」が対戦していた。国代表が他国を訪れた場合、現地の単独チームと対戦することはあるが、単独チームが他国を訪れて国代表と対戦するなど世界の常識外、だった。当時日本はそんなレベルだったという事だ。実力的にも国際常識的にも。

藤原の左は法政出のセンター吉田か。当時センターの12・13は現在の「インサイド・アウトサイド」ではなく「左・右」だった。「インサイドセンター」の概念を導入し、自ら実践したのは後の平尾誠二だと思う。
藤原の右、赤いジャージはリコーのフランカー6番井沢か。
フランカーの「6,7番」も現在のような「ブラインド、オープン」ではなく「左、右」だった。この時代の7番と言えばあの山口良治。後のスクールウォーズである。当時は京都市役所。代表のゴールキッカーも務めていた。このころはトウキック。この合宿では見かけなかったような。

秩父宮13
















左から、藤原、センター森重隆(明治→新日鉄釜石)現ラグビー協会会長、石塚。
森はまだヒゲを生やしていないか。170㎝に満たない、60㎏代は当時としては極端に小柄なわけではなかった。ただ外国に行くとセンターと言っても信じてもらえなかったとか。
彼をしのぐキレキレのステップと瞬時のスピードは未だ見たことがない。あ、福岡が匹敵するか。タイプは違うが。
(う〜ん。これ森じゃないかも。森にしては大きい気もする。果たして森に「ヒゲなし時代」があったのか、とも)

秩父宮8



















左は早稲田のスタンドオフ中村康司。宿沢と同期。
この日の写真にはないが、この時代のスタンドオフと言えば井口と蒲原。
蒲原は早稲田卒業後チームには所属せず「天理教本部」勤務だった。そんな形で代表を続けていた。
当時は選手交代は「負傷の時レフェリーが認めたときのみ2名まで」だったので、中村、代表での出番はほぼなかったと思う。

秩父宮9














これも中村と植山。


秩父宮15





この合宿最年少の藤原。ボールのかたずけは彼一人の仕事だったかも。もちろん革製紐編みボール。



この写真にはフッカーが一人も登場しない。時代的には大東和美(早大出)がいたはず。ただ彼もスタンドオフ蒲原、宿沢らと同様、卒業後はチームに所属しなかった。それでいて3人とも代表選出。まあのどかな時代ではある。3人とも早稲田。
大東は後にJリーグチェアマンになる。


この後、秩父宮の改修は無事終了するが、この間空前の「大学ラグビーブーム」となる。
国立競技場の早明戦は観衆6万を超え東京オリンピック以来の満員を記録する。当日現場の観客席にいた私はバックスタンドの聖火台の下、ゴール裏まで人で埋まるのを友人たちと呆然と見つめていた。いったい何が起こったのだ、って。
このため、秩父宮完成後も大学の人気カードはしばらく国立競技場でおこなわれることになる。
岸体育館内のラグビー協会で手に入った「学生部員券50円」も廃止された。















福井翔太2














高卒トップリーガー
福井翔大


「強豪国」では「大学生世代」がチームの主力にいるのは普通である。

国際試合やスーパーラグビーの中継などで、20歳そこそこの選手が主力として活躍していたりする。
これを実況する日本人アナが「この選手、日本で言えば、大学2年生ですからねえ。」とため息まじりの実況。答える解説氏も「そうですねえ、こういうの強豪国では普通ですからねえ。」と羨望のコメント。
よくある光景である。で、終わり。
ちょっと待った。
なぜ強豪国では「20歳そこそこの選手が中心として活躍するのか、日本ではそうならないのか」、ちょっと考えればわかる。いや関係者は皆ホントは判っているのに言わない!

伸び盛りの「大学生世代」をどう過ごすべきなのか

答えは簡単である。日本では高校から大学を経てトップリーグに入るのがお決まりのコースでそれ以外は実質ない。からだ。
18歳から20歳過ぎの、ある意味アスリートとして一番の伸び盛りを大学で過ごすのかトップリーグで過ごすのか、その成長度には、普通に考えて格段の差があるだろう。
代表やトップリーグチームの「中心」となりうる「才能」にとって「大学生選手」はいわばみんな「格下」かせいぜい「同格」だ。その中で日々練習をし、また試合をする4年間。
一方で18歳でトップリーグに入れば周りはみんな格上、チームメイトにも対戦相手にも日本のトップ選手どころか、今は世界のトップ選手がいたりする。そういう中で日々練習をし、また試合をする毎日。
どちらが「代表級の才能を持つ選手」にとって成長を促すのか論じるまでもない。
もちろん個人差はある。どのジャンルにも「遅咲きの才能」というのは存在して、プロ野球でも、大学や社会人を経たからこそ後に大輪の花を咲かせた、という選手もいるだろう。背伸びして18歳でプロ入りしなかったからこそ成功をおさめたのだ、と。もちろんそれはそれでよい。

プロ野球・サッカーは高卒が主流である
ちなみに現在のプロ野球、あるデータにより全選手を見ると高卒選手317人、大卒選手230人だそうだ。ラグビーのような「お決まりの、たった一つのコース」ではない野球界の自由な進路としてはまあ妥当な所なのだろう。ただやはり高卒の方が約1.5倍多いところは留意したい。
(ちなみにこのデータでは他に高卒社会人55人、大卒社会人113人、その他22人とある。)
もちろん数の比率だけの話ではない。高卒入団後数年で(つまりは大学世代で)チームの主力になる選手が多数存在することは皆さんご存知の通り。
私の世代だとやはり入団2年目の江夏が奪三振新記録401を作ったのが強烈な印象として残る。この年25勝、26完投。19歳で完全に「日本のエース」だった。
(追記・新しいところでは今年高卒2年目、19歳のヤクルト村上が現在セリーグ打点王。)
ただし野球でも十代でチームの主力になるのはやはり例外で、この時期はまず「体作り」。
ラグビーの場合その競技の特性から、野球以上に十代でチームの主力になるのはかなり困難だとは思う。野球以上にまず「体作り」。

サッカー界も見てみる。今度は全然別のデータ。
先日のアジアカップ日本代表メンバー。
惜しくも準優勝に終わったが特に準決勝のイラン戦など今後に大きな期待を持たせる戦いぶりだったといえる。
その代表23人に追加召集の3人を加えた26人。大卒プレイヤーは東口・シュミット・室谷・塩谷の4人のみ。長友・伊東・守田・武藤は大学に進学しているが在学中に「特別指定選手」になりJリーグチームに所属し練習をし試合にも出場している。
ここでは「学歴」の話をしているのではないので「大卒プレイヤー」に加えるべきでないのは当然である。
さらにあの大会を通じて皆が認めたレギュラー11人、プラス10番を与えられながら負傷離脱した中島を加えた12人を見ると全員が高卒。さらには高校の部活選手上がりではなく早くからJクラブの下部組織で育った選手も多数いる。
「年齢的に大学生世代」も3人か。まさに球技のチームスポーツの世界標準であるといえよう。
少し前なら柱谷・名波・井原・中山ゴンなど大卒選手が主力に多数いた時代から見ると隔世の感がある。

高卒ラガーだってやれるぞ
日本ラグビーのこうした傾向はムカシからのものである。ただ以前は「新日鉄釜石」という例外があった。松尾・森両氏の大学スター以外は皆地元東北出身の高卒選手。彼らを鍛え上げての7連覇はまさに偉業であり高卒選手の希望でもあった。こうしたユニークかつ実績を上げたチームは現在見当たらない。
(追記・今年釜石のヘッドコーチに就任したピアースが「地元の高卒選手を育てたい」としている。「釜石の伝統復活か」と今から楽しみではある。)
サニックスで高卒からクラブチーム経由(あるいは自衛隊経由)の選手が活躍しているのはうれしいが、これはまた違うレベルの話。他クラブでも高卒選手はいないわけではないが主力ではない。一昨年豊田自動織機で「高卒キャプテン」をしていた高田には注目していたが釜石に移籍したそうだ。

そんな中、去年、東福岡高校のキャプテン福井翔大が大学に行かずパナソニックにプロ契約入団した。かねてより上記の思いを抱えていた私にはとてつもなく喜ばしいニュースだった。
福井自身この道を選んだ理由としてこう述べている。
「同世代のアイルランド代表と対戦して力の差を感じた。
彼らはこの後プロに進む。そしてまた力をつける。これ以上差をつけられないためには自分もプロに進むべきと感じた。」
日本社会は一つ前例ができれば一気に動くことも少なくない。他チームもパナソニックも引き続き高卒選手のスカウトに動くだろう、高校生側もこれに応えるだろう。
と思っていたのだが、今年はどうなったのだろう。私の情報収集力では何も聞こえてこない。

御所実業のメイン平がNZに留学するという話のみだ。もちろんこれはこれで喜ばしい。がんばってほしい。
だが父がNZ人の彼の例は松島幸太郎などと同じくあくまで特別な環境下での選択であって、残念ながら日本のラグビー界の普遍的な前例にはならない。

もちろん私は「有力選手を大学になど行かせるな」と言っているのではない。自らの人生設計の中で、あるいは保護者との話し合いで「大学進学」も選択肢の一つである。
ただその場合サッカーの「特別指定選手」のような形で在学しながらトップリーグに入団することは充分に可能だろう。実際2年前だか筑波大の山沢は在学中にパナソニックに入団した。これは当時あまりに「異例」であったが、これが「異例」ではないようなシステム作りも求められる。

高卒トップリーガーの行く手を阻害するもの
今年、あるいはこれ以降、福井翔大に続く者が出ないとしたらその原因は何なのだろう。
「高卒プロラグビー契約などという訳のわからん世界より、マトモな人生設計として、皆、大卒社員ラガーを希望しているのだ」という考えもある。実際、福井の母親も将来を考えて「進学」を勧めたとはいう。だが福井は「高卒プロ契約」を選択した。
またパナソニックに有力選手が集中するのも全員「プロ契約」だからだという話もある。
そうなのだ。他の競技にしても「才能とやる気がある選手」はやはり「プロ契約」を望む。そしてその気概なければもちろんプロとしての成功はおぼつかない。
そう考えると「高卒プロ」が広がらないのは決して「人生設計」などのせいではないと思われる。
それよりは、高校生選手、協会、メディアそしてファンにこびりついて離れない「大学ラグビー大好き感覚」、ではないか。日本ラグビーでは長年大学ラグビーが人気の頂点を支えてきた。
たしかに高校の有力選手が皆トップリーグや海外にいったら大学ラグビーはだいぶさびれてしまうのは避けられないだろう。大学野球がプロ野球と高校野球に挟まれて目立たない存在であるように、あるいは大学サッカーが同様の位置づけであるように、大学ラグビーはトップリーグと花園の間に埋もれてしまう運命が待っている。
だが将来の日本のラグビーの発展と強化のためにどういう選択がいいのかはもはや論じるまでもないだろう。
あとはその「理想的選択」のために何をすべきか、を決定するだけである。
従来通り、企業チームと選手の「自由な選択」に任せるのか。
あるいは協会が主導して日本ラグビーの強化・発展のために「高卒トップリーガー」が生まれやすい環境を整備するのか。
前述した「学生トップリーガーも選択肢として提示できる環境」「セカンドキャリア」「契約形態」などを総合的に模索し一つの「形」を提示できるのか、である。
それとも「大学ラグビーの人気と感動」を維持するために、高校生が直接トップリーグ入りする道は従来通り限りなく狭くして、選手の強化は二の次、代表の強化は来日外国人選手任せにしますか


そうではないだろう。
「福井翔大に続け!」


【追記】
プロ入り後1年を振り返って福井翔大のインタビューが先日放映された。
「濃厚な一年でした。何もかも歯が立たなかった。」
「何も追いつけない状態にショックを受け続けて、辛いことも多かったけど」
「素晴らしい環境に入れて幸せだった。」
彼の目は、この1年をプロとして過ごしたことの「自信」と、未来への「希望」に輝いていた。

【追記2】2022.3月
その後も高卒有望ルーキーのトップリーグ・リーグワン入りは報じられない。
ただ李承信は20歳で帝京大を中退、コベルコ神戸スティーラーズに入団、2年目の今季は堂々のレギュラーを獲得している。
またメイン平同様、高卒後日本の大学を経ずにNZにラグビー留学、帰国後リーグワン入りという流れもわずかだが見られるようになった。
藤井達哉(宗像サニックスブルース→NECグリーンロケッツ東葛・SH)は20歳でトップリーグデビュー。
日野レッドドルフィンズの北原璃久(久我山→オタゴ大)や吉川遼(久我山→ワイカト大)なども今季は先発出場を果たしている。









コリンボーク














コリン・ボークが日本国籍取得


これは驚いた。
「ボークコリン雷神」だって!!
この日本名、明らかに「リコーブラックラムズ」式だなあ。
「カウヘンガ桜エモシ」とか「ロトアヘアポヒバ大和」とか「ロトアヘアアマナキ大洋」とかみたいな。
いやブラックラムズでも「ブロードハースト・マイケル」とか「マウ・ジョシュア」みたいに普通に姓と名をひっくり返しただけの「日本名」もいるけど。
これで「帰化外国人」6人かあ。スゴイ勢力だな。みんなFW。
えっ?カウヘンガは退団?そうかー。寂しいな。
リコーの外国人はみんな日本国籍取得するのかな。あと、日本在住が5年に近づいてるのはバックスのロビー・ロビンソンとティム・ベイトマンか。帰化したら「ロビンソン・ロビー」か、それとも「ロビンソンロビー風神」とか?

帰化選手の多くは若いころに来日している
それはともかく。
なぜコリンボークだと驚いたのか。
初めは私自身なぜ驚いたのかわからなかったが、それはやはり彼が元「7人制NZ代表」って「大物」だからだな。上記以外にも帰化外国人選手はいっぱいいるけど多くは高校大学からの留学生で、ラグビー選手としても人間としても、まあ「半人前」が日本で成長して「一人前のラグビー選手」になった連中だ。
リーチ・マイケルしかり、ラファエル・ティモシー、ツイ・ヘンドリックしかり。
留学生でなくても多くは「若手」として来日して帰化した選手達。トンプソン・ルークは23歳で来日かな。
そんな中でボークは例外だ。だから驚いた。
いやそういう意味では「ロス・アイザック」の方がもっと驚きではあったけど。

若手ラガーは日本を目指す
それにしても留学生にしろそれ以外にしろ、ラグビーでは来日後帰化してプレイを続ける選手が本当に多い。
同じプロのチームスポーツでも野球なんか私の知る限りほぼゼロだ。理由はわからない。仮説も思いつかない。米国籍を離脱すると高額な「国籍離脱税」がかかるせいかとも思ったが、バスケットボールの世界では米国出身帰化選手がかなりいるようで、この仮説はハズレ。ルールの問題なのか。
台湾出身では荘勝雄・李宗源が帰化している。私が思いつくのはこの二人だけ。ただし李はロッテのスタッフ三宅氏の養子になるといういわば「裏口入学」。当時外国人枠3人の時代にレオン・レロンのリー兄弟とこのリー(李)の3人を抱えてロッテが行使した裏ワザ。まあ「偽装結婚」よりはマシだが



サッカーではかつて、代表だけとっても、ラモス瑠偉・呂比須ワグナー・三都主アレサンドロ・田中マルクス闘莉王とかがいた。それでもラグビーに比べれば圧倒的に少ない。最近は見当たらない。
これはラグビー「ならでは」の事情があるのだろうか。
サッカーの場合世界中にプロリーグがあって、たとえばJリーグで「通用しなくなった」選手が他国リーグでともかく「プロとして食っていける」環境はある。2部も3部もある。だから来日外国人選手も日本に「長居」する必要はないのだろう。
逆に上昇中の若手選手にとってもサッカー界では一つのクラブ、一つの国に固執することはない。自分の価値を上げて次々に大きなクラブへの移籍を繰り返すのは世界の常識だ。いわばサッカー界の「根無し草文化」。
そういう文化が日本のJリーグでも定着したことにより日本への帰化選手も少なくなった、という事なのだろう。

だがラグビーの場合そうはいかない。世界のラグビー市場はサッカーに比べて圧倒的に小さい。そんな中、日本のトップリーグは、強豪国のプロリーグには入れない、あるいは出番のない選手の「受け皿」になっている一面は事実としてある。
「突破力ではトップリーグでも随一のセンター」とまで言われるヤマハのタヒトゥアだって、ヤマハが連れてくるまではホテルのバーでバーテンダーしていたという。ラグビーの世界市場とはそういうものなのだ。マレ・サウもかつてインタビューで語っていた。「日本でプロとして生活できることを本当に感謝している。その気持ちを込めて日本代表を選んだ」と。特にトンガ・サモア。フィジーなどの太平洋島嶼国では自国の経済力を考えると日本でラグビーを始めることは大きな人生目標となりうる。
それ以外の国にしろ、去年サニックスに来た南アの若手№8なんか自身の結婚式をキャンセルしてでもサニックスのオファーに駆け付けたという。人生初のプロ契約を求めて。

そうして来日を果たした選手が日本で選手寿命を長くしようと思えば当然「日本国籍取得」という選択肢が輝く。
「日本人」になれば「外国人枠」にとらわれず試合に出場できる。これは本人にとってもチームにとっても大きなメリットだ。

日本国籍の取得は簡単ではない
だが話はそう簡単ではない。「日本人」になるのは「狭き門」なのだ。日本の法律とその運用においては。
5年以上の居住については先述したが、これはまあ居さえすればいいのだから難しくはない。「家族も含め犯罪歴が無いこと」もまあ普通に暮らしていればクリアできるだろう。
問題は「日本語力」である。「小学校低学年程度の読み書き」が求められるという。これは難しい。
さらに日本では二重国籍が認められないから、「帰化」によって日本国籍を取得する場合、前の国籍を離脱した証明書が求められるという。

こうして見てくると、来日外国人が「日本国籍を取得する」ことが単に「日本でラグビーで食っていく」だけの目的でなどできないことがわかる。
元の国籍を離脱するには当然家族の反対もあるだろう。
「小学校低学年程度の読み書き」になると、これは急に「帰化」を思いついてできるようなもんじゃない。かつてJリーグ川崎フロンターレにジュニーニョってブラジル人得点王がいた。ワールドカップを前に、「日本国籍を取って代表入りする」と宣言して本人とサポーターが大いに盛り上がっていたが結局叶わなかった。ずいぶん長く日本にいたようだが日本語がダメだったようだ。

それでも日本国籍を選択する選手達
来日外国人選手でも「留学生系」は初めから日本にこの先何年も暮らし、ラグビーで食っていく、という生活設計はあるのだろう。大東文化大のシオネ・ラトゥ氏らに始まる大きな見本と目標がある。学生としても日本語の習得は必修だろう。もちろんその先力をつけて、リーチやマフィ、ツイのようにスーパーラグビーデビューという大目標はあるにしろ。
だがトップリーグなどのチームへの助っ人として来日する外国人にとっては、基本そこは出稼ぎの場である。日本での生活にしろプレイにしろ通訳はいるし英語だけでもどうにでもなる。
だが帰化した彼らは早くから日本語を学びチームメイトやご近所と日本語でコミュニケーションを取り、そして多くは「故国の家族の反対を押し切って」元の国籍を離脱して「日本人」になったのだ。単に当面の食い扶持を稼ぐためだけにこんなことはできない。

多くは10代か20ソコソコで来日する留学生と異なり、彼らは来日して5年たてば年齢は30歳前後。いくら頑張ったところで帰化後の選手生命は知れている、その後は「長い引退後の生活」が待っている。その時は「帰化外国人」である事の方が日本社会で不利益が多いことも予想される。母国籍のまま帰国した方が不利益は少ないかもしれない。だからもちろん、留学生だろうと居住が長かろうと日本語が達者であろうと、帰化しない選手も多い。当然の選択ではある。
功利的損得勘定ではマイナスかもしれないのに、それでも日本国籍を選ぶ選手がいる。
日本人・日本社会・日本での生活への深い思い。

そう考えると彼らの決断、特にロスやボークら大物の決断の大きさ、日本への愛情の大きさに圧倒されるのだ。
ボーク34歳の選択。決断。


ボークコリン雷神はやはりNO.8だな
さてボークコリン雷神、去年はFWでの出場がメインだったが、以前はスタンドオフで先発ってのが多かった。
これは私は疑問だったなあ。彼がスタンドやっても普通にパス・キック・ランが上手だったけどそれだけと言うか。あの巨体とスピードでまず突破を試みてディフェンス何人も巻き込んで展開、って作戦ならわかるがそういうのでもなかった。ほかにスタンドの適任がいないのならともかく、控えにタマティ・エリソンがいたのだから意味わからなかった。実際エリソンが途中からスタンドに入ると一気にバックスラインが活性化したように思う。
ま、もちろんそれはボークの責任ではないが。

おまけ
実は私、ボークと同様、NO.8とスタンドオフの「二刀流」だったのだ。
で、リコーのボークを見た時は「おお、俺は日本のコリンボークだな」などと一人で悦に入っていたものである。
いやもちろん代表とかプロリーグとかのレベルの話ではありませんが。


<追記>

「野球に帰化選手が極端に少ない理由」について、この記事を読んだWさんから有力な仮説が提供されたので紹介します。
「野球は試合中などほとんど親密なコミュニケーションなど必要ないから」というもの。
確かにバスケもコミュ力大事ですし。サッカーも海外志向強い選手は若い時から英語ドイツ語ポルトガル語とか勉強します。そうしないと海外でサッカーができない。一方野球はムカシの野茂とか「米国には野球をしに来たのであって友達作りに来たんじゃないから英語なんかいらない」って言ってましたから。野球はそれで済んでしまう。

まあ「読み書き」は直接プレイには関係なくても現地・友人になじめば自然とこれもマスターしたくなるってものなのでしょうか。
そういう意味で、FWの方が帰化選手多いっていうのも理由がありますね。コミュの必要性に差はなくても、バックスと比べるとお互いの「親密さ」ってちょっとケタ違いな所がありますから。
と考えると昨季ボークがFWに専念したのも帰化への後押しになったかも。5人もの帰化の先輩に囲まれて、「みんな幸せそう。よしオレも」って思ったか




毎年少しずつルールが変わるラグビー。

ここでは約半世紀さかのぼって47年前。私が高校1年でラグビーを始めたころのルールを振り返ってみる。
時に昭和47年(1972年)。実はこの翌年は現行ルールにつながる多くのルール改正が行われ、ルール改変の歴史でも大きな節目だった。したがってその前年のルールは今から振り返るとなかなかすごいものもある。

ルールの変遷を知ることは「ラグビーとは何であるのか」を考える一助となるだろう。

ただし資料を当たるのではない。あくまで私の記憶をさかのぼる。

少なくとも高3当時は「競技規則」全てを頭に叩き込んでいた自信はあるが、さすがに45年たって、どれだけ正確かは正直なところ判らない。間違い・思い違いがあれば、指摘して頂きたいと思う。
一方現行のルールについてはラグビーファンとして最低限の常識は身に着けているが、高3当時のような「競技規則全てを頭に叩き込んでいた」ような状態ではない。したがってここでも間違い・思い違いは充分起こりえることもあらかじめ断っておきたい。

ともあれこの稿は、以前に投稿した「当時の日本代表を振り返る」と同様、私の記憶力テストでもある。菅平
















昭和47年の菅平
真夏の土煙が舞う。
このころ芝のグラウンドなど一面もなかったと思う。もちろん人工芝などない時代。






1.グラウンド

単位は現在のような「メートル」ではなかった。「ヤード」。

22mラインは25ヤードライン。

10mラインは10ヤードライン。もちろんペナルティ時の後退義務も10ヤード。
味方ペナルティ時の、FWリーダーKさんの「10ヤーズバーック!!」の声が今も耳に残っている。

15mラインはなかった。

したがってラインアウトはどれだけ長くても良かった。もちろん実際には反対側のタッチに届くほどの列を作ることなどなかったが。
ラインアウトでの反則再開ポイントは反則地点。

ゴール前の5mラインも無かった。よってゴール前のノッコンやスローフォワードなどのポイントはその行為の発生地点。発生地点がインゴールの場合は再開ポイントはゴールライン上だったと思う。ただしスクラム時は、ゴールライン側チームののフロントロウの足はゴールラインより前に置く。つまりゴールライン上でノッコン等あってもポイントはその地点ではなく、ハーフウェイ寄りにずらすという事。
ゴール前のタッチでは再開ポイントはゴールラインぎりぎりってこともあった。
ペナルティ時はどうだったのか。5mラインが無いのだから他の場合と同様。反則の発生地点からだとも思うが、ゴールラインぎりぎり上からのスタートってのは無理がある。うーん、思い出せない。「仮想の5メートル地点」とかの規定だったのだろうか。


「ヤード」が「「メートル」に変わったのは高2の時だったと思う。

15mラインとゴールからの5mラインが設けられたのも同時期、か、その1年後くらいだと思う。
これができた時は、タテヨコ2本ずつラインが増えて「ラグビー場が碁盤の目のようになった」などと思ったものだ。


聞いた話では以前は25ヤードラインもなく、しかも「ダイレクトタッチ」の概念もなく、攻撃側はタッチに蹴り出せばその分だけ前進でき、相手方はマイボールラインアウトからまたタッチ、という試合展開が多く、これではボールゲームとして面白くない、という事で、25ヤードラインと「ダイレクトタッチ」のルールが作られたという。

現在ではキックの地点が22メートル内であっても「味方が22m内に持ち込んだ場合」はダイレクトタッチとされるが、このころは見方が持ち込んだ場合でも良かった。 時にボール保持者が自分で22m内に持ち込んでタッチキックを蹴ることもあり、これを「余裕のプレイ」と見るか「消極的プレイ」と見るかは意見が分かれたと思う。


2.スクラム

現在のようなレフェリーのコールはなく、互いが呼吸を合わせて組んでいた。相撲の立ち合いと同じである。レフェリーも行司と同じ。上手く息があって組み合えば自然にゲームが再開される。

組む前にプロップが互いの肩に手をかけることも義務付けられていなかったと思う。ただし手の届く範囲からは組み合っていた。

これも聞いた話だが、以前はその規定もなく、スクラム時は数メートル離れたところから互いに突進して組んでいた時代もあったという。

組んだ後のプロップの手の位置は現在のように対面に掛けることが義務付けられてはおらず、特に1番の場合、左手を自分の膝に置いて安定姿勢を取る事が多かったと思う。

このような大雑把なものだったので当然スクラムの反則を取ることはほとんど無く、スクラムが崩れば何度でも組み直していた。

スクラムの人数も規定はなく、フロントロウ3人だけで組むのもアリ。
スクラムを回すのもアリ。スクラムが弱いチームはとにかく回してその場をしのぐのも作戦の一つだった。
攻撃側が回して№8が左にサイドアタックって作戦もあった。

SHによるボールインのタイミングは自由で、スクラムが弱いチームの場合、組んだ瞬間にボールを入れてフッカーはダイレクトで出し即バックスに展開、といった作戦が取られた。

ただしノットストレートは現在より厳密で特にスクラムが弱いチームの場合。1試合にいくつかは反則を取られたものだ。スクラムのノットストレートには「カンニングボール」なんて俗称もあった。
ノットストレートが厳密である分、相手方フッカーのフッキングの力量で相手ボールを
奪うことも可能だった。
したがってフッカーは自ボールを確実に確保する技術、相手ボールを奪う技術の向上に日々努めていたものだった。

スクラムのオフサイドラインは現在のような5m後方ではなく最後尾のライン。

スクラム












昭和47年のスクラム
1番I君の手が自分の膝にある




3.ラインアウト

前後左右とも間隔距離の規定は無し。敵味方グシャッと並んでボールを取り合っていた。で、「ラインアウトは反則の巣窟」などと言われていた。
(いやまてよ、なんか2フィートって数字が頭に残っている。相手との間隔、2フィートって規定だったかも)
その後、高2の時に前後の間隔が規制されたように思う。

リフトアップは反則。当時あるOBが「エレベーター」という「裏技」を教えてくれて、試合で使ったがスグにバレてペナルティ取られた覚えがある。その当時わが校には185㎝の長身ロックNさんがいた。たぶん当時の高校生では全国でも最長身クラスだった。大学・社会人でも185を超える人はそうはいなかった時代。
そのNさんを「エレベーター」すれば、そりゃバレるはなあ。

ラインアウトのオフサイドラインも味方の最後尾だったか。

10m後方になったのも高2の時。

人数をボール投入側に合わせなくても良かったが「長さ」はボール投入側より長いと反則。


4。モール、ラック

アンプレイアブル時は常に直前のボール保持側のボールでスクラム再開。この規定はその後たびたび変更が繰り返され、現在に至る。
モール時のレフェリーのコール、「ワンストップ」とか「ユーズイット」などはなかった。モール・ラックはどうにもならなくなるまで続行された。
コラプシングの反則もなかった。私など、モールが押されるとモール事タックルして崩していたものだ。
あぶないなあ、今考えると。

5.フリーキック

当時はフェアキャッチ後以外は「フリーキック」は無かった。現在のような「軽い反則に対するフリーキック」は無かったという事ですね。 フリーキック時、相手方は10m下がらなくてよく、マークのポイントまで出ることができた。しかもキッカーがモーションに入ればチャージに出てよく、したがってフリーキック側はチャージされないためにはマークより数メートル以上下がってキックをした。
しかもフリーキックはマークポイントを越えなければならず、現在のようにタップキックからスタートというのはできなかった。

フェアキャッチができるのは現行の「22メートルライン内」ではなく「自陣」であったような。
どっちにしろ、フェアキャッチなどめったにするものではなく、特に高校生などがしようものなら、みんなあっけにとられたような反応だった時代。
現在フェアキャッチはキッキックオフのボールに対してはできないが当時は可能。このころではないが後にキックオフからのフェアキャッチが流行ったことがあった。
〈追記〉
フェアキャッチ時の規定について貴重なご指摘を頂きました。
そうでしたそうでした。以下追記です。
「マーク」のコールは静止してかつ片足でマークポイントを明示しなければフェアキャッチは認められなかった。
その後「両足をついて静止」でよくなり、さらに走りながらでも、さらにはジャンプして空中でも認められるようになり現在に至る。
また「マーク」の声が審判に聞こえなかった時のためだろう、キャッチ後腕を「カギ型」に曲げてマークの意志を表示することも規定された。
マーク

 























.反則

基本的に「危険な行為」は現在と変わらないが、その適用は現在より甘く、よほどの事がない限りこのペナルティはなかったように思う。

キック時のレイトチャージも現在のように「ボールの落ちた地点から(オプション)ペナルティキックで再開」ではなく、その地点での再開だった。その後「ボールが落ちた地点でスクラム再開」とのオプションとなり現行ルールへと至る。

シンビンはなかったしレフェリーはイエローとレッドのカードも持っていなかった。。ひどい反則にはレフェリーの判断で警告と退場が宣せられた。


.ペナルティキック

ペナルティからのタッチキックの場合、現在のようにマイボールからのラインアウト再開ではなく、通常のタッチキック同様、相手ボールのラインアウトで再開。

したがって現在のように「ペナルティからタッチに出して再開」という選択は自陣25ヤード内からの脱出、という時ぐらいで、大抵はハイパントか、タップキックからの展開あるいはFWの突進などのサインプレイで再開していた。


.インゴール

現在のように「タッチインゴールやデッドボールラインを越えて攻撃側がボールを蹴り出したときは蹴った地点から防御側ボールでスクラム再開」ではなかった。25ヤードラインからドロップアウト。キックオフ時も同様。

したがってロングキッカーがいるチームはキックオフ時や通常のインプレイ時、ハーフウェイ前後から力任せにボールをデッドボールにケリ出せばドロップアウトで再開、相手陣でマイボールで攻撃というのが流行った。これでは試合がつまらなくなると現行ルールが考案されたのはだいぶ後。


.選手交代

選手交代は原則無し。怪我などでやむを得ないとレフェリーが判断し許可した時のみ2名まで交代が認められた。さらにさかのぼれば交代は一切なし、だったという。


10.レフェリー

現在の「アシスタントレフェリー」はあらゆるジャッジを補佐する。

が、当時の「タッチジャッジ」は、タッチとゴールキックの判定を補助するだけだった。

したがって公式戦でも両チームの関係者がこれを務める事が認められていた。

高校生などのチームでは補欠選手がタッチジャッジを務めることが多く、ひどいチームになるとルールもろくに知らない1年生にやらせることもあって、ダイレクトタッチも知らなかったり、どちらの手を上げるかを知らないなんてこともあった。

いやもちろん私の高校ではそういう事はありませんでしたが。WIN_20180916_17_11_31_Pro


昭和50年ころのスパイク
SUZUKI製
(撮影は最近)









11.得点

トライは4点。
ペナルティゴール3点、ドロップゴール3点、トライ後のゴール2点は今と同じ。
ただし当時は「トライ後のゴール」が決まった場合、トライを合わせた得点がキッカーの得点としてカウントされた。
例えば藤原がトライすれば藤原が4点を稼いだことになる。だがその後のコンバージョンを植山が成功させれば個人記録は植山6点で藤原の個人得点は消える。 この頃日本代表のニュージーランド遠征があったが、通算個人記録は当然植山がダントツだった。
トライの得点、以前は全て3点だったと聞いたことがある。
さらにさかのぼればトライは得点にならなかったとか。つまりトライはゴールを狙う「試み」を得る権利が与えられたという事。だから「トライ」。
つまり原始ラグビーにおいてはラグビーは「ゴール数を競う競技だった」という事。 だからすべてのゴール得点は1。当時の試合では例えば8−0の試合は「大差」だった。
その後トライ「にも」得点が認められ、3点さらに4点、5点とトライの比重が高まり基本「トライを競う競技」になったことがわかる。
現在はトライ6点案が、さらに「自陣22mライン以内からの連続攻撃によるトライは8点」案も検討されているという。

12.キックオフとキックティー
当時はキックティーなんてものはなく、ゴールキックを狙う時は、ボールを立てるためグラウンドに穴を掘るか土を盛るかしていた。芝のグラウンドなどめったになかったが、「土を盛る」派のキッカーは、芝では外から土を持参するしかなかった。
試合開始とハーフタイム明けのキックオフもプレースキック。
私もキッカーをやることがあったが、ボールを立てる私のやり方は「スパイクのかかとを地面につけてここを軸にくるりと回転して穴をあける」、というものだった。が、これを続けるとスパイクのかかとが1方向にゆがみ右スパイクだけがすぐにダメになることがわかってやめた。以後は「土を盛る」派。

試合開始とハーフタイム明けのキックオフもプレースキック。

トライの後のキックオフは、相手のコンバージョンが決まった後はプレースキック、外れた時はドロップキックで再開。今考えるとこれはずいぶん面倒で意味不明なルールだった。

いや、軽い気持ちで書き出したら長くなってしまった。ずいぶん変わったものだ。まいったまいった。

ただこうして約半世紀前のルールを振り返ると、改めてラグビーがどこから来てどこに向かうのかが見えてきますね。
パント


おまけ

ムカシのアルバムをあさってたらこんなのも貼ってあった。
昭和48年のイラスト
「昭和48年のショートパント」(笑)




あ。この絵を見て思い出した。当時は高校生もヘッドキャップなしでOK.。
スクラムのプッシュも1mまでの制限はなかった。全て大人のルールと同じ。
ボールだけ違って、小さめの「6面ボール」。

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